第三章 お礼とピアノ
定められた門限よりも大幅に遅く帰ってきたクリスティアーナを、鞭を構えた父母が怒鳴りつけようとした。
だが、彼女をエスコートする青年の姿に気づいた彼らは、ぽかんと口を開き、手にした鞭を慌てて後ろ手に回した。
「シモン・バンクレイと申します。お見知り置きを」
美しい所作で挨拶をする青年を、父母も、階段の上から様子を眺めていた妹のコーデリアも、穴の開くほど見つめている。
そのせいで、彼のそばにいるクリスティアーナはいたたまれない気持ちになった。シモンの手前、家族はクリスティアーナを叱責や折檻せずにいるが、彼が帰った後は厳しい罰が待っているだろう。
だがその時、シモンがこちらを見て、微笑んだ。
「クリスティアーナ嬢は、散歩の途中で具合が悪くなった母を助けてくださいました。ですから、いずれまた我が伯爵家からお礼をさせていただければと」
父親がクリスティアーナをまじまじと見た。
「あー、クリスティアーナ……クリスや。それは本当か?」
「はい……」
クリスティアーナの視界の端に、コーデリアの顔が映る。彼女は一瞬醜く顔を歪め、すぐに冷淡な無表情になった。姉とシモンをかわるがわる眺め、唇を舌で舐めた。
「お嬢様を我が家にご招待しても?」
「え、ええ! 勿論ですとも。上の娘は学校には行かず、家でぶらぶらしておりますので、いつでも伺わせます」
クリスティアーナは恥ずかしくなり、うつむいた。学校に通っていないと知ると、シモンは変に思うのではないか。
けれど、彼はクリスティアーナに優しく笑いかけただけだった。
シモンの登場に家族の誰もが毒気を抜かれたのか、その夜は折檻を受けることもなく、自室で休むことができた。
ベッドで横になったクリスティアーナは、上下する胸を押さえ、ふうと息を吐いた。
同年代の男と話したことは、今までほとんどなかった。魔法無しだから学校にも通わせてもらえないし、コーデリアが友人たちを家に招いた時も、絶対に顔を合わせないようにしていた。表に出ないよう家族から厳しく言いつけられていたせいでもあるが、単純に、クリスティアーナ自身が怖かったのだ。
あの豊かな髪……。クリスティアーナは、シモンの整った容姿を思い浮かべた。彼も、魔法使いに違いない。今は母の恩人と感謝していても、クリスティアーナの秘密を知れば、きっと皆のように彼女を軽蔑するだろう。
そう思えば思うほど、なぜかいつもよりも胸がしくしくと痛み、クリスティアーナはシーツをすっぽり被った。
いずれまた、とシモンが言ったのは、単なる社交辞令かと思っていた。
だが、彼は早くも翌日の昼下がりに、クリスティアーナを迎えに来た。
「母が、親切なお嬢様を、是非とも茶会にお招きしたいと」
そう笑顔で告げるシモンを、クリスティアーナの父母は唖然と、これからでかけるところだった妹は憐れむような目で見つめた。
「今すぐにでも」
母親は、自室で譜読みをしていたクリスティアーナを呼びに行った。父親はどこか後ろめたそうな顔で、シモンの様子を窺っていた。
まっすぐに背筋を伸ばし、にこやかな表情を崩さないシモンに、ふとコーデリアが近づいた。
「よろしいんですの、シモン様? 姉は魔法無しですわよ!」
シモンが目を見開いた。父親が咄嗟に叱責する。
「やめなさい、コーデリア! なぜ今それを言う?」
「だって、隠していてもいずれは明らかになることですわ」
コーデリアの背は、シモンより頭一つほど低い。シモンを見上げ、コーデリアは微笑んだ。
「姉は、社会のお荷物ですわ。やめるなら、今のうちよ」
シモンはコーデリアを見下ろした。涼やかな瞳が、彼女を捉える。
「それが何だと言うのです? 魔法使いだろうと魔法無だろうと、クリスティアーナ殿は恩人です」
コーデリアが言葉に詰まった時、クリスティアーナと母親が現れた。
急ごしらえで着せたよそゆきのドレスは、流行りを数世代ほど過ぎた濃い紫と派手な型で、彼女の髪とも合っていなかった。とかしたばかりの赤毛はふわふわとまばらに広がり、せっかく留めたダイヤの髪飾りを隠している。
コーデリアは姉を見るなり、ふふんと嘲笑う。けれど、そんな彼女の目の前で、シモンがクリスティアーナに右手を差し出した。
「もしよろしければ、お手を」
「……はい」
外には、ドラゴンが待っていた。シモンのエスコートで、クリスティアーナは人生三度目のドラゴンに乗った。不思議と、昨日よりも怖くない。ドラゴンが羽ばたくのに合わせて、心も浮き立った。
シモンの母、フィオラは、伯爵邸の庭で待っていた。花園の中のテーブルには、純白のポットとティーカップ、色とりどりの小さな菓子が並んでいる。
クリスティアーナとシモンに気づくなり、フィオラは椅子から立ち上がった。
「ようこそ、クリスティアーナさん。来ていただけて嬉しいわ」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
クリスティアーナはぎこちなく笑みを浮かべ、お辞儀をした。
「お体の具合はいかがですか?」
「もうすっかりよくなったわ。あなたのおかげね。昨日は本当にありがとう」
シモンが空咳をした。
「まだ油断なされては困ります、母上。くれぐれも無理はしないでほしいですね」
「ええ、分かっていますとも。だから、散歩はしばらくやめにすると言ったじゃないの」
軽い口調でフィオラは言い返したが、眉のあたりが曇っていた。
日々の楽しみが一つなくなったのだから、本当は辛いに違いない__そう察したクリスティアーナは口を開こうとしたが、どのように慰めたらよいだろうと迷い、なかなか言葉が出てこない。
そんなクリスティアーナの顔を見て、フィオラは目元を和ませた。
「ささやかな席だけれど、楽しんでいってちょうだいね」
側に控えていた召し使いが、ティーポットに手を伸ばした。シモンに促され、クリスティアーナは着席する。椅子は三つ。参加者はフィオラとシモン、クリスティアーナだけのようだ。
クリスティアーナは緊張しながらも、お茶の香りや甘いお菓子、庭園に咲き誇る花の見事さに感嘆した。フィオラはクリスティアーナが社交界の噂話よりもむしろ花やお茶の話に興味があるらしいと早々に察したのか、優しい口調で庭園に咲く花や木について話してくれた。シモンがそこに注釈を挟んだり、クリスティアーナに問いを投げる。いつしかクリスティアーナの緊張もほどけ、穏やかな気持ちで話せるようになった。
ふと、フィオラがつぶやくように言った。
「本当は、音楽家を呼ぶことができたら、もっと楽しい会になったかもしれないのだけど。いつだったか夫が、庭にピアノを置いたのよ。雨や風の日にはツタで守られる、魔法のピアノなの。だけど、我が家にはピアノを弾ける人がいないのでね」
フィオラがシモンを見上げた。
「シモンがピアノを習ってくれたら、と思っていたのだけど……」
シモンは顔をしかめた。
「何も今、その話をしなくても!」
クリスティアーナが首を傾げると、シモンは苦い顔で視線を落とした。
「……私は、生まれつき魔力が弱いんです。人並みに魔法が使えないから、学校にも通えない。実は落ちこぼれなんですよ」
「私は何も、そんなつもりで言ったのではありませんよ、シモンや。音楽ができるのは素晴らしいことではないの」
「母上はただ、音楽が魔力に効くという迷信を信じているだけではないですか」
両手を広げ、シモンはため息をついた。
「音楽なんて、ただの気休めにすぎない」
クリスティアーナは、静かに立ち上がった。
「クリスティアーナ?」
「どうなさったの?」
戸惑う二人に、彼女は笑いかけた。
「シモン様は決して落ちこぼれではありませんわ。私などは魔法無しです。魔法を使うなど、夢見ることもかないません」
それでも。マエストロの教えを思い出しながら、クリスティアーナは告げた。
「それでも、私には音楽があります」
クリスティアーナは、フィオラに尋ねた。
「ピアノを弾かせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん!」
ピアノの前に案内され、蓋を覆うツタをそっと退け、クリスティアーナは鍵盤に手を置いた。
溢れ出す音楽が、庭を満たしていく。フィオラは目を閉じ、体をかすかに揺らしながら聴いた。
一方シモンは目を瞠り、鍵盤を叩くクリスティアーナをじっと見つめた。
( ……魔法無しだなんて言うけれど。彼女は魔法使いだ。そうに決まっている。でなければ、こんなにも……)
彼女の指先が、優しく微笑む顔が、風に揺れる赤毛が、きらきらと輝いてみえる。お茶を飲んでいる時より、自宅で自身なさげにうつむいている時より、彼女は今が一番美しかった。
体がじんわりと温かくなったのを感じ、シモンはみじろぎした。自分の指先に、光が灯っていた。かつて惨めにもしょぼしょぼと明滅し、とうとう消えてしまった光が。小さく、けれど確かな熱を持って。
(これは…………)
シモンがテーブルの上に視線を注ぐと、風などないのにカップがカタカタと揺れた。食べ残しの菓子が、皿から浮き上がった。
シモンはクリスティアーナのピアノを聴きながら、自分の両手を固く握り合わせ、指先の光が広がっていくのを食い入るように見つめていた。




