第二章 思いがけない出会い
ある日の夕方、クリスティアーナは日課の散歩に出かけた。
散歩のルートと時間は、厳密に決められている。15分経っても帰ってこなかった場合や、定められた道以外を歩いていたと報告された場合は母親に折檻を受けた。貴族学校の通学路や、他の貴族の邸宅の前は決して通らないこと。魔法無しの娘を友人知人に見られたくない両親や妹が決めた規則だ。
ひとけのない道を、伏し目がちにクリスティアーナは歩いた。だが全く人が通らないわけではないので、何人かとは顔を合わせてしまう。
「おや、こんばんは、クリスティアーナ」
「あ、こんばんは」
挨拶してきたのは、近くに住む老人だった。貴族であるが、今は子どもに爵位を譲り、隠居生活を営んでいる。
「あらあら、クリスちゃん。ご無沙汰だったわねぇ」
ある男爵家の侍女頭が、そう気さくに声をかけた。クリスティアーナとの身分の差をものともしない肝っ玉女中である。
「メアリさん、お久しぶりです」
「少しやせたんじゃないの? だめよ、若い子がダイエットなんて。お腹周りを気にするのは、あたしみたいなおばちゃんになってからさ」
あっはっはとメアリは笑った。つられてクリスティアーナも遠慮がちに笑う。
彼らはクリスティアーナが魔法を使えないことを知らない。子爵家がひた隠しにしているからだ。それで良いと彼女自身も信じていた。真実を知ったら、よくしてくれた彼らも軽蔑して、去っていくだろう。
クリスティアーナは、自身の豊かな赤髪をつまみ、くるくるとねじった。髪の長い者が魔法使いで、短く切っているのが魔法無し。遥か昔から世間に浸透している常識だ。長い髪に魔法の力が宿るのか、魔法使いが髪を切ると何故かうまく魔力をコントロールできなくなるらしい。元から魔法を使えない魔法無しは、髪を伸ばす必要がない。魔法使いとの区別を明確につけるため、魔法無しには肩上までのカットを義務付けている国もある。
魔法の使えないクリスティアーナが髪を腰まで伸ばしているのは、両親の命令だ。長女が魔法無しであることを恥じる彼らは、その事実が周囲に露呈する日をできるだけ先に、そして被害を最小限にとどめるため、クリスティアーナの髪は決して切らせなかった。
数年前、妹コーデリアがクリスティアーナの髪を料理バサミでぐちゃぐちゃに切ったことがあった。魔法無しに豊かな髪は必要ないと言って。その時両親ははじめて妹に怒った。そしてクリスティアーナにはカツラを被せ、しばらく一日二度の散歩も許さなかった。
「クリスちゃんのピアノを聴くのが、毎日本当に楽しみでねぇ」
物思いに沈んでいたクリスティアーナだが、メアリが自分に言及したので、はっと我に返った。老人もメアリの言葉にうなずいている。
「そうとも。あの音を聴くと、わしの半分死んでるようなこの体に、力が湧いてくるような気がするんだ」
「ちょっと、やだぁ! まだ元気でいてよ、ご隠居さま」
メアリがけらけらと笑った。
「ありがとう……ございます」
クリスティアーナは深々とお辞儀をした。
「ほんとのことよ、お世辞じゃないのよ。クリスちゃん。これからもピアノを続けてね」
メアリは優しくそう言ったが、老人は薄い眉をくもらせた。
「だが、クリスティアーナは近いうちに結婚して、どこか遠くの領地へ旅立ってしまうかもしれない」
「まぁ! ……言われてみれば、そうね。寂しくなるわぁ。お相手は? これと言う方が、いるんじゃないの?」
クリスティアーナは、静かに首を振った。
「おりません」
事実だった。彼女はもう十七歳で、歴とした貴族令嬢なのだから、普通であれば既に婚約者がいるはずだ。
一つ下の妹のコーデリアは、学園に何人も異性の友人がおり、その中の誰か一人を婚約者として選ぶつもりらしい。だが、姉のクリスティアーナは、婚約の話など両親からも誰からも聞かされたことがない。
理由は明白だと彼女は思っていた。自分が魔法使いでないからだ。学園でも社会でも重視されるのは、本の知識や見目の麗しさよりも魔法の実技だ。魔法の腕があれば、平民出身でも王にさえ仕えることができる。逆に言えば、魔法が使えなければ貴族生まれであっても爪弾きだ。社会の周縁で、こそこそと生きていくしか術はない。中にはマエストロのような例外もいるけれど。
結婚の話を早々に切り上げ、丁重に別れの挨拶を述べてからクリスティアーナはその場を去った。散歩の持ち時間は、立ち話をしていたらあっという間に過ぎてしまう。
やや急いで家へと向かっていたクリスティアーナだが、道端に誰かがうずくまっていることに気がついた。彼女よりも遥かに上等な身なりの、初老の女だ。羽織った毛皮のケープが小刻みに震えている。
「あの、大丈夫ですか!?」
うずくまる女から返事はなく、ただ荒い息遣いが聞こえるばかりだった。
クリスティアーナはとっさに彼女の背中をさすり、肩を抱いた。
「とにかく、どこか横になれる場所へ……!」
女の顔は真っ青だった。クリスティアーナの言葉に無言でうなずきながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。
(こういう時、魔法が使えたら……)
魔法無しであることをいつも以上に呪いつつ、クリスティアーナはふらふら歩く女を支えた。
二人の周囲には、貴族たちの屋敷が並んでいる。背に腹はかえられない、どこかの家に助けを求めようとクリスティアーナが見回していた時、小さな笛を渡された。
「これを……吹いて」
苦しい息の下から頼まれ、クリスティアーナはあわてて笛を口にあてた。
空気を裂く甲高い音が響き渡るのと前後して、小ぶりなドラゴンが空から降りてきた。クリスティアーナたちが背中に乗ると、ドラゴンは前置きなく飛びたった。
(あっ、どこまで行くんだろう)
咄嗟にクリスティアーナの心をよぎったのは、門限を破った時に与えられる罰だった。
だが、彼女は首を振った。
(この人を放ってはおけないわ)
ぐったりとドラゴンの固い背中にもたれかかる女が、落下してしまわないように。クリスティアーナは彼女の肩をしっかりと抱き、腕をからめた。ドラゴンは下降に入る。見えてきたのは、クリスティアーナの自宅よりもずっと立派な邸宅だった。
「もう少しの辛抱です! ……あの、ええっと、お名前は……」
「フィオラといいます……」
「フィオラ様」
柔らかな草の上に降り立ち、クリスティアーナは微笑んでみせた。
「歩けますか?」
「ええ、ありがとう」
口元を絹のハンカチで押さえ、まだ小さく震えながら、フィオラはうなずいた。
通りがかった庭師がフィオラとクリスティアーナの様子に気がつき、慌てて応援を呼んだ。駆けつけた執事や侍女がフィオラを四つ足の担架で搬送していき、クリスティアーナは手持ち無沙汰になった。
「お嬢様、もしよろしければ中へ……」
庭師の言葉に頷きかけたクリスティアーナだが、門限を破っていることをはっと思い出した。
「いいえ、私はこれでおいとま致します」
庭師は残念そうに眉を下げた。
「奥様のお命を救ってくださった方に、是非ともお礼をさせていただきたいと思ったのですが……」
「ありがとうございます、でも、お気持ちだけで」
クリスティアーナは小さく両手を振った。
「たまたま通りがかっただけですから。有用な処置も、何もできませんでした」
もし家族がそこにいたら、魔法無しがでしゃばるなと叱りつけただろう。その様子をありありと思い浮かべながら、重い気持ちでクリスティアーナはお辞儀をした。
「では、失礼致します」
「あっ、お嬢様……」
「僕が送っていこう」
凛とした声がその場に響き渡る。戸惑うクリスティアーナの前に現れたのは、背の高い青年だった。一つに束ねて金糸を編み込んだ長い黒髪が、風に揺れる。
庭師が青年を見て声を上げた。
「シモン様!」
シモンと呼ばれた、精悍な顔立ちの青年は、クリスティアーナに微笑みかけ、胸に手を当てた。
「シモン・バンクレイと申します。つい先ほど貴女がお救いくださった、フィオラ・バンクレイ伯爵夫人の次男です」
シモンは、ふと顔を歪めた。
「……母は体が弱く、長く重い病に伏せっていました。最近は具合が少し良くなって、散歩にも出られるようになってきたのですが……まだ発作は治りきっておらず」
控えていた庭師たちも、辛そうな顔になった。
シモンは、クリスティアーナの目をまっすぐに見つめてこう言った。
「貴女は母の命の恩人です。このお礼は、近いうちに必ずさせてください」
クリスティアーナはそっと目を伏せた。
「いえ、そんな」
「もしよろしければ、お名前をお聞かせください」
クリスティアーナが名を告げると、シモンが優しく手を取った。
「お屋敷までお連れします、クリスティアーナお嬢様」
「ありがとう……ございます」
初めて触れた男の手は、少し固く温かかった。




