第一章 クリスティアーナという令嬢
クリスティアーナは、レイクス子爵家の長女である。
澄んだ空色の瞳に燃えるような赤毛の美少女で、誰に対しても優しく、勤勉で謙虚な性格であるため、近隣の貴族たちからの評判は非常に良かった。
だが、家族からの評価は全く異なっている。
「クリスティアーナは落ちこぼれだ」
家庭教師に研究者の才があるとまで褒められた一の娘を、父親の子爵はそうけなした。
「まったく、あんな子を産むんじゃありませんでした。その後コーデリアが産まれたから良かったものの……。我が家に何の得ももたらさない穀潰しですよ」
子爵家、ひいてはシグナス王国の国益にも貢献したいと日々自己研鑽に励むクリスティアーナを、母親の子爵夫人は罵った。
「目障りだわ、あいつ。姉だなどと呼ぶのも嫌なくらい」
幼い頃は優しく遊んでもらった妹のコーデリアも、姉を蔑みの目で見つめた。
家族に悪口を聞こえよがしに言われるのに、クリスティアーナはとうに慣れきっていた。毎日、毎時間のことだからだ。両親も妹も、彼女の全てが気に入らない。やることなすこと何もかもにケチをつけずにはいられない。
クリスティアーナは、魔法の使えない人間__ 魔法無しだったのだ。
魔法無しは、魔法使い百人に対して一人いれば多い方だ。誰もが魔法を自在に使い、社会のシステムのほとんどが魔法を前提に構築されたこの世界において、魔法無しは邪魔者、お荷物と蔑まれ、差別を受けていた。子爵家も勿論魔法使いの家系である。それなのに何故、魔法無しのクリスティアーナが生まれたのかと、医者も魔法研究家も首を傾げていた。(母は浮気を疑われたため、今でも長女を恨んでいる)
クリスティアーナを庇った侍女は、暇を出された。高額なお小遣いをもらい、欲しいと言ったものは何でも買ってもらえる妹に対し、クリスティアーナはお小遣いどころか必要なものすらなかなか買わせてもらえなかった。
魔法無しがうつるからと妹とは早々に隔離され、家族と同じ食卓を囲むことすら許されない。両親の唱えた「魔法無し伝染説」を信じる使用人は、食事をクリスティアーナの部屋の中に運ぶことや、部屋の掃除すら恐れた。
妹のコーデリアは貴族たちの通う学園で青春を謳歌していたが、クリスティアーナは家の恥だからと通学すら許されず、家庭教師をつけられ自室で勉強をした。外に出ることを許されるのは朝と夕の散歩だけだったが、それすら両親は渋い顔をした。
そんな日々の中、クリスティアーナの数少ない楽しみは、ピアノのレッスンだった。
月に一回指導をしてくれるのは、マエストロと呼ばれる中年男の音楽教師である。
クリスティアーナの家族は知らないが、彼の本職は指揮者で、世界各国を飛び回っているらしい。だから月に一回しか来ることができないが、クリスティアーナはこの時間をいつも心待ちにしていた。
ピアノを弾くのはとても楽しい。楽譜に没頭し、頭を音楽でいっぱいにすると、家族たちへの負い目ややるせない気持ちが押し出され、どこかへ飛んでいってしまう。マエストロのレッスンの時間だけはピアノを自由に弾いて良いことになっているので、クリスティアーナは心ゆくまで鍵盤を叩き、ペダルを踏んだ。
「いいね、前よりもずっと成長してるよ」
マエストロに褒められ、クリスティアーナは赤くなった。
「もう少し山場を後に持っていけたら良いね。ほら、fやffがずっと続いたら、平坦な音楽になる。pもだけど、クレッシェンドとデクレッシェンドを大切にしてほしいな」
「はい!」
「表現指示の意味はわかるかな?」
「前回マエストロにいただいた辞典で、勉強しました!」
「素晴らしい」
マエストロは眼鏡の奥のきらきら輝く目を細め、微笑んだ。ちなみに、彼も魔法無しである。
ピアノを始めたのは、魔法無しには音楽をさせると良いらしいと、母親がどこかから聞き込んできたからだ。何故かは両親も、クリスティアーナ自身も知らない。だが、楽しいからまあ良いかなと思っていた。両親がクリスティアーナにしてあげた、数少ない良いことの一つである。
「速いところになると、どうしても楽譜に集中したくなっちゃうよね。気持ちに余裕がもてるように、反復練習していこう」
「はい」
クリスティアーナは鍵盤に指をそっと置き、五線譜を見つめた。
レッスンが終わると、マエストロが旅のお土産をくれた。溶けない魔法の氷で冷やしたアイスクリームだった。
「おいしい……!」
優しい甘さのミルクアイスを口に含み、クリスティアーナは頰を緩めた。
「ラポールの都で、流行っているんだって」
「ラポール……」
隣国ラポールはおろか、生まれ育ったこの街を離れたことは一度もない。理由は一つ、旅行など親が許さなかったからだ。
「行ってみたい?」
「はい。……でも、きっと無理ですわ」
「どうして?」
無邪気に尋ねるマエストロを、クリスティアーナは軽く睨んだ。
「私が、魔法無しだからです!」
マエストロは静かに首を振った。
「行けるよ、魔法無しでもさ。自分なんかあちこち行き過ぎて家を買う必要がないくらいだよ」
それは、あなたがマエストロだからです、とクリスティアーナは心の中だけでつぶやいた。
「家族が、許してくれるはずありませんわ。ここでないどこかに行くなんて。私は、レイクス家の恥晒しなのですから」
「それ、ご家族に言われたんだね」
マエストロの眉間に皺が寄った。クリスティアーナは慌てて付け足す。
「真実ですもの」
「違うよ。真実ではない。無知と傲慢に満ちた呪いだ」
マエストロはきっぱりと言い切り、鞄から新しい曲の楽譜を取り出した。
マエストロから楽譜を渡され、クリスティアーナは瞬きをした。
「クリスティアーナ、君はいつか、堂々と行きたいところへ行けるようになる。必ずだ。だから胸を張って、魔法無しであることに誇りを持って。君も、君のピアノも、誰かを救うよ」
「私が……?」
「そう。だからさ、音楽を大切にしてね。約束だよ」
新しい楽譜を抱きしめ、クリスティアーナは頷いた。
マエストロが帰った後も、クリスティアーナはしばらくピアノを練習した。あまりにも熱中していたので、自室の扉が開いて閉じたのにも気がつかなかった。
不意に、重いピアノの蓋がバタンと閉じられた。指を挟まれそうになり、慌ててクリスティアーナは両手を引いた。
冷たい表情のコーデリアが、驚くクリスティアーナを見下ろしていた。
「うるさいからやめてくださる? 耳障りなの」
クリスティアーナの頭が、急速に冷えていく。
「魔法無しのくせに、いい気になってるんじゃないわよ」
令嬢らしからぬ汚い言葉遣いで吐き捨てて、コーデリアは出て行った。
残されたクリスティアーナは、ゆっくりと蓋を開け、カバーを鍵盤に被せた。コーデリアはいつも姉のピアノを嫌う。だから練習できるのは、彼女が出かけている間だけだ。
誇りなど、持てるはずがない。クリスティアーナは楽譜の上に涙をこぼし、慌てて拭った。魔力がないと分かった幼い時から役立たずと罵られ、冷遇されてきた。けれどそれは自分のせいだ。自分が魔法無しだからだ。
けれどクリスティアーナは、楽譜をまたぎゅっと抱きしめた。毎日磨いている純黒のアップライトピアノを、クロスで優しく磨いた。ピアノが好き、音楽が好き。この気持ちだけは、家族だって奪えやしない。




