第十三章 シモンの訪問
あくる日クリスティアーナが自宅でピアノを練習していると、シモンがつかつかと近寄ってきた。クリスティアーナの妹、コーデリアも一緒である。
突然のことに、クリスティアーナはピアノに指を置いたまま凍りついた。シモンと顔を合わせるのは、あの日の夕方、散歩中に襲われて以来だ。今は真っ昼間で、自宅の中だ。そう分かっていても、恐怖で体の芯がしびれ、頭が真っ白になった。
シモンとコーデリアは、何故かにやにやと薄ら笑いを浮かべていた。
「この間は、朝帰りをしたそうじゃないか」
魔法使いどもに襲われ、ギャレットとマエストロに救われたあの夜のことを指しているのだろう。クリスティアーナは小さくうなずき、婚約者と自分の妹を油断なく観察した。後ろめたく思っている様子も、クリスティアーナを思いやる様子も全くない。朝帰りをしたのも、元はと言えば彼らのせいなのに。
「日課の散歩をしておりましたところ、卑劣な暴漢に襲撃を受けました。助けてくださった方が、夜歩くのは危険だとおっしゃるので、お言葉に甘えてホテルに泊まりました」
「助けてもらった相手とは、一体誰だ? 君にそんな友達がいるとは思えないが……」
クリスティアーナは思わず微笑んだ。
「コーデリアよりは、友達に恵まれているかと存じます」
コーデリアの顔が真っ赤になった。怒りで、だろう。
「な、難ですって!? もう一度言ってみなさいよ!」
「ええ、何度でも。私は魔法無しですが、心配してくださる方がそれなりにいらっしゃるのです。わがままで、傲慢故に、なかなかお友達ができないコーデリアとは違って」
コーデリアの交友関係については、乳母や侍女が愚痴をこぼしていたのを何度となく聴いたことがあった。学園でも、社交の場でも、魔法や美貌を鼻にかけた彼女の素行や発言は、同性から忌み嫌われている。今周囲にいる取り巻きは、コーデリアの両親が払うお小遣い目当てでちやほやしているだけに過ぎないのだと。
コーデリアのきれいにセットした髪の毛が、怒りで逆立った。ちりちりと肌を焼く熱気に、クリスティアーナはひるんだ。だが……コーデリアたちとすっぱり縁を切るためには、いっそ取り返しのつかないほどに怒らせてしまった方がいい。
「学園で何度もいじめ事件を起こすから、そのたびにお父様が多額の寄付金と慰謝料を払っているのですってね。__私はそんな無駄なお金を払わせたことは、一度もないわ。ずっと家にいただけなのに、婚約者も見つかったし、素晴らしい音楽の先生と頼もしい味方もいる。どうしてこうも、あなたと違うのかしら。コーデリア」
ものすごい音と衝撃に吹き飛ばされて、クリスティアーナは床に倒れ込んだ。はっと身を起こすと、グランドピアノが木っ端みじんに破壊されていた。頭に破片がぶつかったのか、ぐらぐらと痛んだ。
魔法を右手に集め、瞳を憎しみでたぎらせたコーデリアが叫んだ。
「殺してやる!」
騒ぎを聞きつけ、召使いたちが駆け込んできた。倒れたクリスティアーナと壊れたピアノ、そして荒い息を吐き、クリスティアーナを睨みつけるコーデリアを見て、彼らは立ちすくむ。
シモンは、青い顔でコーデリアからじりじりと後ずさり、クリスティアーナに言った。
「あ……謝れ、クリス。コーデリアに」
クリスティアーナは、歯を食いしばり、首を振った。
「……コーデリアが、私のピアノを壊したことを謝ってくれるのなら」
それを聴いた途端、コーデリアはふたたび癇癪を爆発させた。
「黙れ、黙れ! この、できそこない! 人間のクズのくせに、わたしに謝れだなんて……!!」
「お嬢様!」
果敢にも執事がコーデリアを押さえようとした。コーデリアが魔法でぽんぽんと手当たり次第に飛ばせた調度品は、飾ってあった絵や像を破壊し、壁に刺さった。
誰かがクリスティアーナを助け起こした。シモンではない。侍女のミミという娘だった。
「クリスティアーナ様、お逃げください」
「ええ……」
ミミに支えられ、クリスティアーナは屋敷を抜け出した。
外に出ても、まだ頭は痛いままだった。
「旦那様がお戻りになる頃には、コーデリア様のお怒りも静まっているでしょう」
それはどうかしらとクリスティアーナは思ったが、黙っていた。額から流れた一滴の血を、ミミがハンカチで拭いてくれた。
ミミとは、あまり言葉を交わしたことがなかった。彼女は魔法使いだ。家族や他の召使いたちと同様、クリスティアーナを見下しているのだろうと思っている。
「……クリスティアーナ様が、コーデリア様を批判なさった時」
ミミが、おずおずと言った。
「胸がすっといたしました」
クリスティアーナは思わず微笑んだ。
「大変ね、あなたたちは。……私よりも」
姉にさえ、あんな風にあたるコーデリアだ。
ざっざっと足音がして、顔を向けると、シモンがそこにいた。コーデリアから逃げてきたのだろう。肩のところが破れ、血が滲んでいた。
「……君のせいだぞ」
彼の非難に、クリスティアーナは首を振った。
「いいえ、あの子が癇癪を抑えられないのは、私のせいではありません」
「君が彼女を怒らせた」
「真実を言っただけですわ」
クリスティアーナは鼻で笑った。シモンは随分無様だった。コーデリアからクリスティアーナを守ることもせず、かといってコーデリアに寄り添い怒りを鎮めるでもなく逃げ出すだけ。
「戻れ。戻って、コーデリアに謝ってこい」
「嫌です」
「待て!」
シモンは、ミミを連れて家から離れようとしたクリスティアーナの腕をつかんだ。
「クリス__」
「シモン様」
クリスティアーナは、小首を傾げてみせた。
「軍隊の訓練で、お忙しいのではないですか? 何故、そうやって私たちに構ってばかりいるのです?」
シモンの顔が真っ赤に染まった。コーデリアによく似ている。
「黙れ!」
シモンが、手を振りかぶった。ミミが息をのむ。
クリスティアーナは拳で殴られることを覚悟して目をつぶったが、いつまで経っても拳は飛んでこなかった。
「やめろ」
静かな声に目を開けると、ギャレットがそこに立っていた。シモンの腕を捕まえ、冷たい目で見下ろしている。
シモンが顔を歪めた。
「お前は……!」
ギャレットはクリスティアーナに顔を向けた。
「大丈夫か?」
「はい!」
「よかった」
シモンの腕を軽くねじり、それから離した。自然にクリスティアーナに寄り添うギャレットを見て、シモンの顔が更に引きつる。
「そいつは私の婚約者だぞ」
「”そいつ”? シグナスのお貴族様は、愛する相手を”そいつ”呼ばわりするのか。……野蛮な国だ」
ミミが目を丸くして、ギャレットとシモンを見比べている。口元が今にも笑いだしそうに緩んでいた。
「行こう、クリスティアーナ」
「ええ。……ミミ、あなたも?」
ギャレットと手をつないだクリスティアーナが呼びかけると、ミミは首を振った。
「いえ、お仕事がありますので。……でも」
後で、お話を聞かせてくださいね。そうささやき、ミミは屋敷の裏口から戻っていった。
クリスティアーナは、シモンをその場に残し、ギャレットと立ち去った。特に、行くあてはないけれど。
「怪我をしているな」
「ええ。でも、大丈夫です」
「何があった?」
事情を説明し、クリスティアーナはため息をついた。
「ピアノを……壊されてしまいました」
後になって、じわじわと悲しみがこみ上げる。子どものころから、唯一の友達だったピアノだ。ピアノを壊されると分かっていたら、あんな風に挑発しなかったのに。
「マエストロに頼んで、楽器を調達してもらう」
ギャレットの提案に、クリスティアーナは慌てて首を振った。
「お忙しい方なのに、そこまで頼れません」
「じゃあ、どうする?」
二人で重苦しく黙った時、後ろから声がかかった。
「おや、クリスティアーナかね?」
振り向くと、散歩友達の老人が杖をついて立っていた。
「悲しそうな顔をして、どうしたね。困り事があるなら、言ってごらん」




