第十四章 グレイソン氏の家で
貴族の屋敷で働く女中のメアリは、買い物からの帰路でふと足を止めた。
「ピアノの音だわ」
レンガ造りの、やや小さな家。少しだけ開けた窓の隙間から、滑らかなピアノの音が聞こえた。
「誰が弾いているのかしら」
そう呟き、メアリは窓から中を覗いた。不躾な行動だが、この家の主は顔馴染みのご近所さんだ。
「ちょっと、グレイソンさん……あっ!」
家の主を呼んだメアリは、中にいたもう一人の人物を見て、驚きの声を上げた。
「クリスティアーナちゃん!」
ピアノが止んだ。クリスティアーナがぱっと振り向き、顔を輝かせた。
「メアリさんっ」
窓に駆け寄るクリスティアーナを、家の主である老人
、グレイソン氏がにこにこと見守っている。
「まあまあ、クリスちゃん。どうしてこのお家に? なんだか痩せたようだけど、ちゃんとご飯を食べさせてもらってるの?」
クリスティアーナははにかんだ。
「自宅のピアノが壊れてしまったので……グレイソン様が、ご厚意でお家のピアノを貸してくださっているんです」
「ピアノが壊れた? どうして?」
メアリは曖昧に微笑んでごまかした。妹のことを告げ口するのは気が進まない。
「ねえグレイソンさん、あたしも中に上がってちょっと聴いていってもいいかしら?」
「もちろんだとも」
二人に増えた観客の前で、クリスティアーナは練習中のコンチェルトを弾いた。
人に聴かれていると、自分一人で弾いている時よりも緊張し、指がもつれたり、覚えたはずの楽譜がぽろぽろと頭から抜けていったりする。
けれどそれも練習だ。聴かれることに慣れれば慣れるほど、自分はきっと上手くなる。
本番までに残された時間は多くはない。焦りがないと言えば嘘になる。けれど……。
譜面を睨み、とにかく指を動かした。じきに、見られていること、聴かれていることは気にならなくなった。
そうして何時間も経った。メアリは雇い先の屋敷にとうの昔に帰ったし、グレイソン氏は友人たちとのチェス会に出かけた。自分がいない間にピアノを練習していいと言われていたので、クリスティアーナは一人で練習に励んだ。
これを知ったら、図々しいと家族は怒るだろう。自分自身も、こんなに他人の厚意に甘えていいのだろうかと常に不安がある。
けれど、ピアノを練習できるのはここしかなく、マエストロから与えられたこの課題は絶対に成功させたい。となると、自分に選ぶ余地はなかった。
休憩した時、呼び鈴が鳴った。家の主人の代わりに応対に出て、クリスティアーナはうっと息を止めた。
一体どこから聞きつけたのか、シモンがいた。
「クリスティアーナ」
クリスティアーナは即答した。
「コーデリアには謝りません」
シモンが眉をひそめた。
「いつまで意地を張るつもりだ。……まあいい、今日はそのために来たんじゃない。コーデリアも落ち着いたことだし」
シモンは、クリスティアーナの腕をつかんだ。
「僕の家に来い。ピアノなら、そこで弾け」
クリスティアーナは首を振り、腕を引き抜こうとした。けれどシモンの力は強く、とても振り解けない。
「嫌です」
「どうしてだ。以前はあんなに押しかけていたのに」
「どうしてですって?」
クリスティアーナは、愕然とした。
「シモン様。あなたは、私に来てほしくないのだと思っていました。気が変わられたのですか?」
「気が変わったのではない。だが、母が君を待っている」
「お母様が!」
クリスティアーナは、思わず笑い声を上げた。ぎょっとしたシモンがとっさに手を放す。
「お母様が体調を崩されたのはこの私のせいだと、シモン様、あなたはおっしゃいましたよね? それなのにどうして、また私を呼ぶのですか? お母様はもう私の顔も見たくないのでは?」
「そうだ。君のせいで母は塞ぎ込んでいる。だからその償いをしてもらう!」
シモンの合図で、何人かの男たちがクリスティアーナを玄関から引きずり出した。家の前にはドラゴンが控えている。抵抗するクリスティアーナを抱き上げ、ドラゴンの背中に乗せてから、シモンは囁いた。
「言っておくが、お前の色男は今日は来ないぞ。コーデリアが引き止めているからな。今頃は、あの子に夢中になっているかもしれないぞ」




