第十章 海蛇
粉々に潰された貝殻の残骸を見つめ、クリスティアーナは小さく安堵の叫び声を上げた。
だが、期待していたようなことは、何も起こらなかった。マエストロが颯爽と現れる__あるいは、空から雷が落ちて、襲撃者たちを打つ__そんな、魔法のようなこと。
服を脱がされるのに必死で抵抗しながら、クリスティアーナは静かな絶望の波が押し寄せてくるのを感じていた。
私を助けてくれる人など、いないのだ。
襲撃者たちの中でもとりわけ小柄な一人が、クリスティアーナの顔を蹴った。鼻に痛みが走り、どくどくと温かい血が流れる。
「ふふ……」
ひそやかな嘲笑が耳を撃った。間違いなく女の声だ。嫌という聞き覚えがある気がした。
「コーデリアなの?」
クリスティアーナの絞り出すような問いかけに、返事はなかった。一人が、小柄な「彼女」に寄り添い、肩を抱く。
(ああ……)
クリスティアーナは息を吐き出した。
(やっぱり……"そう"なのね)
なんだか全てが虚しくなり、男たちの手を必死に押し戻そうとしていた手を緩めたその時、
不意に、不思議な匂いを嗅いだ。今までに嗅いだことのない、強い匂い。強いて言えば、日差しが特に強い日の地面の匂いを、更にきつく、それから何か混ぜ物をしたような。
襲撃者たちも、誰からともなく顔を上げた。
「潮の匂い……?」
「馬鹿な、ここは海から離れているぞ」
感想を交わし合う男たちに、別の男が声を荒げた。
「くだらないことを言っていないで、さっさと女を犯せ」
直接的な恐ろしい言葉に、クリスティアーナはぞっとした。わずかに緩んだ男たちの手を全力で振り払う。
「無駄だ!」
男たちがクリスティアーナを笑った。だが次の瞬間、彼らは鋭い悲鳴を上げた。
クリスティアーナに見えたのは、太く長い丸太のようなものが、襲撃者たちを薙ぎ払う光景だった。おそらくクリスティアーナの体よりもさらに太く、ずるずるとどこまでも長く伸びた不思議な棒だ。月明かりに黒々と光るそれは、人間が走るよりも素早く動き、容赦ない強さで男たちを打った。
「何なのよ……!?」
コーデリアそっくりな声の襲撃者が、地べたに身を伏せながら喚く。
「殺せ!」
男たちが魔法の杖や剣を構えると、「それ」はおもむろに鎌首をもたげた。
丸太ではない。蛇だ。巨大な体をびっしりと鱗が覆い、せびれは剣のように鋭い。さっき嗅いだ不思議な匂いは、今や辺り一帯を包んでいた。
大蛇はコーデリアに顔を向け、かっと牙を剥いた。
彼女が悲鳴を上げる。すかさず若い襲撃者が飛び出し、彼女の前に立った。
「僕が相手だ!」
間違いない。シモンだ。彼は剣を抜き、蛇に突きつけた。だが、何も起きなかった。
その場にいただれもが、思わず彼を見つめた。黒いフードが脱げているのにもすっかり気づかないシモンは、自分の剣を見下ろし、目を見開いた。
「魔法が……何故……?」
「シモン! 前を見て!」
大蛇が、シモンとコーデリアに襲いかかる。仲間たちが飛び出し、ぎりぎりのところで彼らを大蛇の牙から救い出した。
バタバタと彼らは逃げていき、後にはクリスティアーナと大蛇だけが残された。
クリスティアーナは、静かに蛇を見上げた。蛇も見返した。不思議と恐怖は湧いてこなかった。
クリスティアーナが立ち上がり、一歩蛇の元へ近づくと、大蛇は縮んで若い男の姿になった。
大柄な。短い顎髭を生やした青年。マエストロのように髪は短い。大きな目が、躊躇なくクリスティアーナを見つめた。立っているだけで、大蛇のような威圧感を与える男だった。
「あなたは」
クリスティアーナの声は震えていた。恐怖でか、喜びでか。それは本人にもわからない。
「マエストロですか?」
彼は目を瞠り、首を振った。
「いいや。俺はマエストロじゃない」
「では、どうして私を助けてくださったのですか?」
彼が現れたのは、クリスティアーナが貝を潰したからに違いない。
男は肩をすくめた。
「マエストロに、頼まれていた。合図があれば、すぐにあなたを助けに行ってくれと。……あの人には借りがあるから、断れなかった」
彼は顔をしかめ、やれやれと首を振った。それから、クリスティアーナに右手を差し出した。
「行こう。あいつらが戻ってくるかもしれないから」
クリスティアーナは少しためらい、それからゆっくりと歩み寄った。マエストロが送ってくれた助っ人だ。信じられる。
彼はクリスティアーナをエスコートしながら、ギャレットと名乗った。
「俺は、半人半獣だ。そうしたい時に、いつでも海蛇になれる。驚かせて悪かったな」
「いいえ……」
危機を救ってくれたのだから、海蛇だろうがドラゴンだろうが構いやしない。
「シーサーペントとは、大きな蛇のことなのですね」
「海のな」
「海って?」
ギャレットは驚いたのか、ぴたっと立ち止まった。
「海を、知らない?」
恥ずかしくなり、クリスティアーナはうつむいた。
「家から、ほとんど出たことがありませんでしたの」
「……そうか、悪かった」
ぶっきらぼうに謝った後、ギャレットは海について聞かせてくれた。
海とは世界の大半を占める広い水の世界で、陸上に負けず劣らずさまざまな生き物が暮らしていること。
海の水は塩辛く、飲むのには適していないこと。
海蛇は海に住む大蛇で、毒を持ち、時には船という乗り物で海を旅する人間たちを襲うこと。
ギャレットは海の中の世界で生まれ、海辺の田舎町と海中の両方で育ったこと。
「俺の故郷、オーブという国は、ここからすごく遠いんだ。だから、同郷のやつには全然出会わない」
彼の話に相槌を打ちながら、クリスティアーナは、緊張が次第に和らいでいることに気づいた。
ギャレットは、近所のホテルの部屋を二つ借りた。
「宿代はマエストロが払うから」
と、一番高い部屋を躊躇なく選び、彼はクリスティアーナに目をやった。
ギャレットは滅多に笑わない。怒っているようなぶっきらぼうな口調で、むっつりと塞いだ顔でクリスティアーナに向き合う。けれどクリスティアーナは彼を恐れなかった。家族に受けた仕打ちに関して良かったことがわずかでもあるとすれば、相手に悪意があるかないか、目を見ればわかるようになったことだ。
ギャレットの灰色の瞳には、思いやりが隠れている。本人の自覚に関わらず。
家の客間よりも広い部屋のソファに二人は座った。
「一人になりたいか?」
ギャレットの問いかけに、クリスティアーナは首を振った。
「いいえ」
「そうか。……無理はするな」
「誰かといたいんです」
クリスティアーナはきっぱりと答える。
ギャレットが、ちらりと視線を扉に走らせた。
「チェックイン前に呼んだから、もうすぐ来ると思う」
「え? どなたがですか?」
その時、扉がぱっと開いた。振り向いたクリスティアーナは思わず声を上げ、ソファから立ち上がる。
「マエストロ!」
マエストロ__旅する指揮者が、せかせかと中に入ってきた。服装は黒いマオカラースーツで、脇に指揮棒を挟んでいる。広い額に汗をかき、眼鏡の奥の瞳は以前と変わらずきらきらと輝いていた。




