第十一章 マエストロの提案
「クリスティアーナ」
マエストロは、クリスティアーナの手を取り微笑んだ。
「お久しぶりです……」
クリスティアーナはこみあげる嗚咽をなんとかこらえ、笑った。マエストロがハンカチを取り出し、渡してくる。顔を拭くと、まだ残っていた鼻血がついた。
「マエストロ、もしかしてコンサート中でしたか?」
「ううん、終演後だったよ。気にしないで。それより……」
マエストロはソファにクリスティアーナを座らせ、自分もその隣に腰掛けた。
「どうしたの。何があったの? 自分に話してみてくれる?」
クリスティアーナはうなずいた。
「はい」
マエストロなら、そして彼の頼みでクリスティアーナを助けてくれたギャレットなら。きっと話をきちんと聴いてくれる。そうクリスティアーナは信じることができた。
「ごめん、ちょっとその前に……」
マエストロがギャレットに視線を向けた。
「結界は張った?」
「いや」
「今すぐ張ってきて。誰にも邪魔されたくないし、盗聴されたくもない。あと、ついでにフロントで飲み物でも貰ってきて」
「……了解。何がいい?」
後半は、クリスティアーナに向けられた言葉だった。
「あ、あの……何でも」
「分かった。マエストロは酒か?」
「いや、紅茶がいいな。冷たいの」
ギャレットが出て行った後、マエストロが笑った。
「無愛想だけど、頼りになる奴でしょ。ギャレット」
「はい。……あの、どこでお知り合いに?」
「オーブに旅行に出かけた時にね。彼は魔法使いだけど、半人半獣でもあって。故郷では困った立場に置かれることが多くてね。似たもの同士で意気投合したというか」
「ギャレット様は、マエストロに借りがあるとおっしゃいました……どんな借りですか?」
「秘密」
マエストロは冗談めかして答えた後、真剣な表情になった。
「自分の話よりも、クリスティアーナの近況が聴きたいな。例の婚約者は?」
ちょうどその時、お盆を持ったギャレットが帰ってきた。彼がクリスティアーナのために貰ってきたのは、湯気を上げるココアだ。
とろりと甘いココアを一口含み、クリスティアーナは少しずつ、マエストロが去ってから今までに起こったことを語った。
ギャレットとマエストロは静かに聴いていた。ギャレットは塞いだ顔で、マエストロはいつものように穏やかな微笑を浮かべて。
婚約者のシモンに「耳障り」とピアノを評されたことを話すと、マエストロの眉がひょいと持ち上がった。そして話がどんどん進み、海蛇の姿のギャレットに対してシモンが魔法を使わなかったところまでくると、マエストロはうんうんと頷いた。
クリスティアーナが語り合えた後、ギャレットが唸るように言った。
「不愉快な奴らだ」
マエストロも頷く。
「そうだね」
彼は唇を突き出し、何か考え込んでいるようだった。
クリスティアーナはココアをすすり、ほっと息を吐いた。ずっと、周りにとって不愉快なのは自分だと思っていた。だから、ギャレットたちが気遣ってくれるのが少し嬉しい。彼は魔法使いなのに。
「クリスティアーナ」
不意にマエストロに呼びかけられ、クリスティアーナはソファの上で居住まいを正した。
「はい」
「事情はよく分かった。それで、君はこれからどうしたい?」
「どう……」
これから、という言葉に、突然気が重くなった。この後、クリスティアーナは家に帰らなければならない。妹と両親、そして婚約者が待つあの家へ。誰一人味方のいない空間へ。
そして彼女を助けてくれた貝殻は、もう使ってしまったのだ。
「クリスティアーナ」
マエストロが、落ち着いた声で言った。
「君を本当に助け出すのは、君自身の力でなければならない。自分やギャレットはあくまでその手伝いをするだけだ。どうかな。今の状況を変えたいと、本気で思ってる?」
「…………」
正面から問われると、気持ちが揺らぐ。クリスティアーナは今まで、いつも受け身でいた。辛い出来事にも理不尽な仕打ちにも、ただ耐えるしか対処法はないと思っていた。
マエストロがささやいた。
「もし君が本気で変わりたいのなら、勿論自分は手を貸すよ。でも、道のりは決して楽でも規定事項でもない。それにひょっとしたら、今君が持っているものを、ピアノの技術以外全部捨てることになるかもしれない。__どうする?」
クリスティアーナは目を瞠った。それからちょっと笑った。よく考えなくても、ピアノ以外に持っているものなど、何もない。家族の愛も、恋人も。
「やります。あの家から逃げるために、何でもします」
クリスティアーナのまっすぐな声に、ギャレットが初めてほんのりと笑みを浮かべた。目が合い、クリスティアーナは照れた。
「その言葉、大切にね」
マエストロはギャレットに、「自分の鞄、フロントに届いてるはずだから。持ってきて」と指示した。
「……了解」
ギャレットが出て行った後、マエストロはきびきびクリスティアーナに説明した。
「今から一ヶ月後、王家主催のコンサートが開催される。君や婚約者の家も必ず招待されるはずだ。そこで全ての決着を着けよう。コンサートが終わる頃には、自由の身になれるようにね」
「はい……」
「君のやることは二つ。その日までに、婚約を解消すること。コンサート当日でも構わない。相手に解消されるのでも良い。とにかく、彼との関係を断てるようにするんだよ」
二つめは……と続けたところに、ギャレットが戻ってきた。彼から鞄を受け取り、マエストロは中から一冊の楽譜を出した。
「これを、コンサートまでに練習して。人に聞かせられるクオリティにまで仕上げておいてね。できるだけ、婚約者と妹さんには聴かせないで、こっそり練習して」
与えられた楽譜は、三十分近くある協奏曲だった。
「当日までオケと合わせられないかもしれないけど、まあゲネ本(当日のリハーサルだけやって本番に臨むこと)で行けるでしょう。この一曲に人生がかかってると思って、死ぬ気で練習してね。困ったことがあったら、ギャレットが君の家の近くに待機しているから、すぐに呼んで」
ギャレットがぼやく。
「人使いの荒い……」
「何か言った? 聞こえない」
マエストロは鼻で笑い、立ち上がる。
「それじゃ、自分はオルバルドに戻ります。今夜はここに泊まっていってね。また一ヶ月後、会いましょう」
去り際に、マエストロはクリスティアーナの肩を優しく叩き、ささやいた。
「君ならできると、俺は信じてるからね」
マエストロが出て行った後、ギャレットもクリスティアーナに言った。
「……ゆっくり休んでくれ。俺は隣の部屋にいる。何かあったらすぐに」
「ありがとうございます」
クリスティアーナは深々と頭を下げた。
「そんなにかしこまらなくても」
「だって、ギャレット様は命の恩人ですから」
「大げさだ」
彼は肩をすくめた。
「また、何度でも呼べばいい。マエストロに頼まれてるし、……それに」
ギャレットが言葉を中途半端に切った。クリスティアーナが首を傾げると、彼はごほんと咳をしてからこう言った。
「俺も、あんたには自由になってほしい」
返事も待たず、ギャレットはそそくさと部屋を出て行った。
彼を見送ってから、クリスティアーナは、貰ったばかりの楽譜を早速開いた。連符が多く、難曲だ。だが……弾けないほどではない。
楽譜を追っているうちは、家族や婚約者のことを思い出さずに済んだ。




