第5話 記録こそが盾
断罪審理を二日後に控えた夜。
私は、アーレンス公爵邸の書庫にいた。
亡き父が遺した、おびただしい量の記録。判例集、調書の写し、自筆の覚書。家令のセバスが、ろうそくを手に、私のそばに立っていた。
「お嬢様。──本当に、抗わずに行かれるのですか」
老いた家令の声は、震えていた。
「抗う、とは?」
「王宮には、まだアーレンス家に恩のある方々がおられます。手を回せば、審理を遅らせることも、あるいは……」
「セバス」私は、彼を見た。「それは、私がやってはいけないことです」
「ですが──」
「考えてみてください。私が裏で手を回し、審理を歪めたら。私は、聖女の心証で人を裁く者たちと、何が違うのですか。──彼らは声で事実を捻じ曲げ、私は人脈で捻じ曲げる。同じです」
セバスは、唇を噛んだ。
「私が今日まで疎まれてきたのは、『証拠で裁け、声で裁くな』と言い続けてきたからです。その私が、いざ自分のこととなって、声と力で逃げたら──私の言葉は、すべて嘘になる」
「……旦那様も、同じことを仰っていました」
私は、手を止めた。
「父が?」
セバスは、古い覚書の束を、そっと私の前に置いた。
「旦那様が、職を追われたときのことです。──旦那様は、ある貴族の不正を、記録に基づいて告発なさいました。動かぬ証拠でした。ですが、その貴族には、後ろ盾があった。大審理院を束ねる、大法官その人です」
「……大法官、マグヌス=フォン=オルデン卿」
その名は、知っていた。
今、王都の司法の頂点に立つ人物。「心証主義を司法に取り入れるべき」と、最も熱心に説いている人。
「マグヌス卿は、旦那様の証拠を退け、逆に旦那様を『私情で同僚を陥れた』と告発なさいました。証拠ではなく──『判事としての心証に欠ける』という理由で。旦那様は、職を失われました」
私は、覚書を開いた。
父の几帳面な筆跡が、そこにあった。告発した不正の詳細。退けられた経緯。そして、最後の一行。
『記録は残した。私は退くが、記録は退かない。いつか、これを読む者が現れる』
胸の奥が、熱くなった。
(お父様)
父は、負けたのではなかった。
負けたように見えて、ただ──記録を、遺したのだ。
いつか、読む者のために。
「セバス。この覚書を、すべて写してください。原本は、家の隠し書庫へ。写しは──」
私は、机の上の一冊に手を伸ばした。
古い、革表紙の判例集。父が最も大切にしていた一冊だった。
「これと一緒に、私が持っていきます」
「お嬢様。それは……追放先まで、お持ちになると?」
「ええ」
私は、その判例集を、胸に抱いた。
ずしりと重い。けれど、不思議と、温かかった。
「剣も、金も、人脈も、私はもう持てません。──ですが、記録は持てます。記録は、奪われても、燃やされても、誰かが覚えていれば、よみがえる」
「……」
「アーレンス家の家訓を、覚えていますか」
セバスは、目に涙を浮かべて、答えた。
「『記録こそが、弱き者の最後の盾なり』」
「ええ」
私は、窓の外の夜空を見た。
星が、いくつか瞬いていた。
「父は、その盾を遺して逝きました。今度は、私が、その盾を持って立ちます。──戦う場所が、王都でなくとも」
二日後。
私は、断罪される。
けれど、もう、恐れはなかった。
手の中に、盾があるから。
お読みいただきありがとうございます。
父の失脚の裏にいた大法官マグヌス。コルネリアの戦いは、彼女個人のものではなく、父の代から続く「証拠主義と心証主義の戦い」だったのです。
そして、アーレンス家の家訓「記録こそが、弱き者の最後の盾なり」。これが物語全体を貫く言葉になります。
次話、断罪審理の前夜。アデライドが落とした一枚の紙が、後にすべてを覆す鍵になります。
ブックマーク・評価、心より感謝いたします。




