第4話 優しさの偏り
断罪審理の翌日、私はジークハルト殿下に呼ばれた。
王宮の一室。彼は、いつになく沈んだ顔をしていた。
「コルネリア。昨日のことは……私も、信じたくない」
「では、筆跡鑑定をお命じください」私は即座に答えた。「殿下のお言葉一つで、手続きは再開できます。私はそれを望みます」
彼は、目を伏せた。
「……それは、できない」
「なぜですか」
「聖女ミレーユの御業を、王家が公然と疑うことになる。今、神殿との関係を損なうわけにはいかない。それに──」
彼は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「アデライド嬢は、震えながら証言していた。あの涙が、嘘だとは思えない。君も見ただろう」
「涙は、証拠ではありません」
「コルネリア」
彼は、私を見た。
その目には、咎めるような色があった。
「君は……いつもそうだ。人の気持ちを、証拠ではないと切り捨てる。アデライド嬢が傷ついていることも、聖女が善意で語っていることも、君には『確かめられないもの』でしかない。──それが、君の冷たさだ」
冷たさ。
何度も、言われてきた言葉だった。
「私は」私は静かに答えた。「アデライド様が傷ついていないと言ったことは、一度もありません。彼女の涙が本物かもしれないことも、否定していません。──ただ、それと、私が罪を犯したかどうかは、別の問題です。涙の真偽と、事実の真偽を、混ぜてはいけない。それを混ぜた瞬間、裁きは、声の大きい者のものになります」
ジークハルトは、何も言わなかった。
「殿下」私は続けた。「私が恐れているのは、私自身のことではありません。今日、聖女の心証で証拠が退けられた。それが許されるなら、明日、誰かが同じように、確かめられぬまま裁かれます。声を上げられぬ、弱い者から先に」
「……君は、自分が裁かれているときにも、他人の心配をするのか」
彼の声は、半ば呆れ、半ば──どこか、痛むようだった。
「それが、アーレンスの務めだからです」
彼は、長い間、黙っていた。
窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「私は、優しくありたいと思っている。誰も、理不尽に傷つかない国を作りたい。──だから、震える者の手を取る聖女を、否定できないんだ」
「その優しさが」私は静かに告げた。「どちらに偏るかを、誰が決めるのですか」
彼は、答えなかった。
その日の午後、断罪審理の正式な日程が告げられた。
三日後。公開の場で、私の処分が決まる。
私は、自室に戻り、机に向かった。
いつものように、今日のことを書き留める。日付。会話。相手の名。殿下が筆跡鑑定を拒んだこと。「優しさが偏る」という言葉に、彼が答えなかったこと。
すべて、記録に残す。
そのとき、ふと、幼い頃の父の言葉が蘇った。
『コルネリア。記録は、誰のためにあると思う』
幼い私は、答えられなかった。
『弱い者のためだ。力のある者は、声で事を動かせる。だが、声を持たぬ者を守れるのは、記録だけだ。──だから私たちは、書く。誰も読まなくても、書き続ける』
父は、もういない。
大審理院の判事だった父は、数年前、ある事件をめぐって職を追われ、失意のうちに病で世を去った。詳しい経緯を、私はまだ知らない。
ただ、父が最後まで、机に向かって何かを書いていたことだけは、覚えている。
(お父様。私は今、あなたの言葉の意味を、知り始めています)
ペンを置き、私は窓の外を見た。
雨は、上がっていた。けれど、空はまだ重く曇っている。
三日後。
私は、おそらく、すべてを失う。
それでも、記録だけは、残る。
お読みいただきありがとうございます。
ジークハルトの「優しさ」は、悪意ではありません。だからこそ、それが冤罪の装置になっていく構図が、この物語の核です。
そして、亡き父が遺した「記録は弱い者のためにある」という言葉。これが、コルネリアの戦いの原点になります。
次話、アーレンス家の家訓と、父の失脚に隠された影に迫ります。
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