第3話 これは、記録に残ります
それは、あまりにも唐突だった。
「アーレンス公爵令嬢コルネリアに、公金横領および文書偽造の嫌疑がかけられている」
大審理院に呼び出された私を待っていたのは、その一言だった。
検事のロデリク=ファルケが、淡々と書面を読み上げる。出世欲の強い、抜け目のない男だった。
「公爵家が管理する救貧院の会計簿に、不正な書き換えの痕跡がある。──証言者も、いる」
壇の脇に、アデライド=フォン=ベルガーが進み出た。
彼女は、瞳に涙を浮かべていた。
「わたくし……見てしまったんですの。コルネリア様が、夜の書庫で、帳簿を書き換えていらっしゃるのを……。止めなければと思いましたが、怖くて……」
声を震わせ、彼女は顔を覆った。傍聴席が、ざわめく。
私は、静かに口を開いた。
「アデライド様。その『夜』とは、いつのことですか」
「せ、先月の……二十日の夜ですわ」
「先月二十日。──その夜、私は王宮にて、ジークハルト殿下と面談しておりました。書庫にはおりません。王宮の入退記録に、私の名が残っています」
「記録など……後から、いくらでも書き換えられますわ!」
アデライドが、涙ながらに叫んだ。
その一言で、傍聴席の空気が、彼女の側へ傾いた。
「では、会計簿の筆跡を鑑定してください」私は退かなかった。「私の筆跡と照合すれば、書き換えが私の手によるものか、すぐに分かります。手続きを、お願いします」
検事ロデリクは、しかし、書面を閉じた。
「その必要は、ない」
「……なぜ、ですか」
審理室の扉が開いた。
白い衣の聖女ミレーユが、ゆっくりと歩み入る。彼女は私の前に立ち、その澄んだ瞳で、まっすぐに私を見た。
「……視えます」
彼女の声は、優しかった。だからこそ、残酷だった。
「あなたの心には……影が、あります。隠したい、後ろめたいことを、抱えている。──ごめんなさい。わたしには、視えてしまうんです」
審理室が、静まり返った。
そして、次の瞬間。ため息と、嘆きと、軽蔑が、波のように広がった。
「聖女様が、そう仰るのなら……」
「公爵家の令嬢が、救貧院の金を……なんと浅ましい」
「証拠などいらぬ。聖女様の御業こそ、何よりの証だ」
筆跡鑑定は、行われなかった。
王宮の入退記録は、確かめられなかった。
私が用意した、救貧院の収支の整合を示す書類は──検事の手で、束ごと脇に置かれた。
握りつぶされた。
文字どおり、私の証拠は、誰の目にも触れぬまま、闇に消えようとしていた。
心の奥が、軋んだ。
怒りではない。もっと冷たく、もっと深い、底のないものだった。
それでも、私は泣かなかった。
叫びもしなかった。
私は、書記官席に向き直り、静かに告げた。
「書記官。今の審理を、すべて正式記録に残してください。一言一句、漏らさず」
「……は?」
「アデライド様が『記録は後から書き換えられる』と述べたこと。検事が筆跡鑑定を拒否したこと。聖女様の心証のみで、私の証拠が検分されなかったこと。──すべて、です」
審理室が、ざわついた。
検事ロデリクが、眉をひそめる。
「アーレンス嬢。何のつもりだ」
「記録を残すのは、被告の権利です。法に定められています」私は彼を見据えた。「あなたは今日、証拠を確かめませんでした。確かめなかったという事実は──記録に残ります」
「……それが、何になる」
「今は、何にもなりません」
私は、まっすぐに前を見た。声は、震えていなかった。
「ですが、記録は嘘をつきません。心は書き換えられても、記録は、書き換えれば痕が残る。──この審理が誤りだったと証明される日が、いつか来ます。そのとき、この一行が、証拠になります」
私は、傍聴席を見渡した。
軽蔑の視線。同情の視線。困惑の視線。
その中に、ジークハルト殿下の姿があった。
彼は、何かを言いかけて──結局、口を閉じた。
「私は今日、罪を認めません」私は告げた。「ですが、この場で抗っても、証拠は検分されない。ならば──私は、記録に賭けます。いつか、事実が事実として扱われる日に」
誰も、何も言わなかった。
私は一礼し、審理室を後にした。
背に、ざわめきが渦巻いていた。けれど、その音は、もう遠かった。
回廊に出ると、窓の外で、雨が降り始めていた。
冷たい石の匂いが、いっそう濃くなる。
(記録は、残った)
握りつぶされた証拠の代わりに、私が掴んだのは、たった一行の記録だった。
それで十分だ。
今は、それで。
お読みいただきありがとうございます。
証拠を握りつぶされてなお、コルネリアは泣きませんでした。彼女が選んだのは「記録に残す」というたった一つの抵抗。この一行が、いつか王都を覆す証拠になります。
次話は、この断罪を黙認する婚約者ジークハルトの「優しさ」と、その奥にあるものを描きます。
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