第2話 心で裁く、という流行
聖女ミレーユが大審理院に現れてから、ひと月が過ぎた。
王都の裁きは、目に見えて変わっていった。
「聖女様の御業を、審理に取り入れるべきだ」
「証拠を集めるのには時を要する。だが聖女様なら、一目で罪の有無が視える」
「何より──慈悲深い。冷たい証拠の山で人を裁くより、よほど人の心に適っている」
大審理院でも、その声は日に日に大きくなっていた。
私は、補佐人として複数の審理に立ち会っていたが、流れははっきりしていた。聖女が「この者は澄んでいる」と言えば、証拠が薄くとも放免される。「濁っている」と言えば、弁明の機会さえ十分に与えられない。
もちろん、彼女の言葉が結果として正しいことも多かった。だからこそ、人々は安心して頼った。
けれど。
「アーレンス嬢は、聖女様のお力を信じておられないとか」
ある日の休廷中、若い書記官の一人が、探るように言った。
「信じる、信じないの話ではありません」私は手元の調書を閉じた。「私が信じるのは、確かめられるものだけです」
「では、聖女様のお力は確かめられないと?」
「確かめずに信じることを、信仰と呼びます。──ですが、裁きは信仰ではありません」
書記官は、気まずそうに目を逸らした。
その小さなやり取りが、どう広がっていくのか。そのときの私は、まだ深く考えていなかった。
夕刻、私はジークハルト殿下に呼ばれた。
王宮の一室で、彼は窓の外を見ながら、静かに切り出した。
「コルネリア。君が、聖女の力を疑っているという話を聞いた」
「疑っているのではありません。確かめられないものを、裁きの基準にすべきではないと申し上げているだけです」
「……君は、いつも正しい」
また、その言葉だった。
褒めているようで、どこか、突き放すような響き。
「だが、正しさだけでは、人は救われないんだ。あの聖女のおかげで、救われた者が大勢いる。震えていた者が、涙を流して感謝している。それを、君は冷たく否定するのか」
「否定はしていません。──ただ、もし誰かが、彼女の『心証』を悪用したら? 権力を持つ者が、気に入らぬ相手を『心が濁っている』と言わせたら? そのとき、証拠を持たない裁きは、その者を守れません」
ジークハルトは、しばらく黙っていた。
「君は……起きてもいないことを、なぜそこまで恐れる」
「起きてからでは、遅いからです」
彼は、ふっと息を吐いて笑った。困ったときの、彼の癖だった。
その夜、私が王宮の回廊を歩いていると、柱の陰に、見覚えのある令嬢が立っていた。
侯爵令嬢、アデライド=フォン=ベルガー。
最近、聖女ミレーユに熱心に取り入っているという娘だった。
「ごきげんよう、アーレンス様」
彼女は、可憐に微笑んだ。けれど、その目は笑っていなかった。
「聖女様のお力を疑うなんて、おやめになったほうがよろしくてよ。──神殿を敵に回すのは、賢明ではありませんもの」
「忠告として、受け取っておきます」
「あら。忠告だなんて」アデライドは扇を口元に当てた。「わたくしはただ……心配しているだけですわ。あなたのような『正しい』方ほど、足元をすくわれやすいのだと」
彼女は、優雅に一礼して去っていった。
私は、その背を見送りながら、奇妙な感覚を覚えた。
あれは、ただの嫌味ではない。何かを、知っている者の顔だった。
(足元をすくわれやすい、か)
私は、自分の足元を見た。
磨かれた石の床は、いつもと変わらず、冷たく硬い。
けれど──その下で、何かが動き始めている気がした。
まだ、証拠はない。けれど、違和感だけは、確かにあった。
私はその夜、自室の机に向かい、今日あったことを、いつものように書き留めた。
日付。会話。相手の名。
記録は、嘘をつかない。
いつか、これが何かを照らすかもしれない。
お読みいただきありがとうございます。
アデライドの不穏な「忠告」。何かが、コルネリアの足元で動き始めています。
次話はいよいよ勝負どころ──コルネリアに突きつけられる嫌疑と、握りつぶされる証拠、そして彼女の静かな宣言を描きます。
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