第1話 完璧な裁定
事実は、声の大きさでは、変わらない。
それを、私はこの日も、証明するつもりでいた。──その「正しさ」が、少しずつ疎まれ始めていることに、まだ、気づかぬまま。
高い天井から差し込む光が、磨かれた床に細く落ちている。傍聴席の貴族たちは、扇の陰で囁き合いながら、これから始まる裁きを娯楽のように待っていた。今日も、大審理院は、冷たい石の匂いに満ちていた。
私――コルネリア=フォン=アーレンスは、書記官席のすぐ後ろ、補佐人の席に座っていた。
アーレンス公爵家は、代々、王国の法を支えてきた家だ。
父は大審理院の判事を務め、私は幼い頃から判例集を読み、証拠の扱いを学んできた。感情ではなく、事実で人を裁く。それが、私たちの務めだった。
「では、審理を始める」
壇上の主審が告げる。
被告は、平民出身の若い商人だった。貴族の馬車にぶつかり、相手を負傷させたとして訴えられている。馬車の主は、被害を大きく申し立てていた。
「商人ガレオは、貴族院の馬車に故意に衝突し、御者と同乗者に怪我を負わせた。──そうだな?」
「ち、違います! 私は道の端を歩いていただけで……!」
商人の声は震えていた。
貴族の側は、余裕の笑みを浮かべている。証言する従者を三人も揃えていた。三対一。この国では、それだけで結論はほとんど決まる。
「証人が三名。被告の弁明は一名。──であれば」
「お待ちください」
私は立ち上がった。
審理室の視線が、一斉に私に集まる。補佐人が口を挟むのは異例だ。それでも、私は静かに続けた。
「証人の数は、事実の重さとは関係ありません。問題は、証言が互いに食い違っていないか、です」
「アーレンス嬢。何が言いたい」
「三名の証言を照合いたしました。御者は『被告は右から飛び出した』と。同乗者の一人は『左から』と。もう一人は『正面から』と申し立てています。──同じ事故を、三人が別々の方角から見ることはできません」
審理室が、わずかにざわめいた。
「さらに」と私は手元の書面を示す。「事故のあった大通りは、その日、石畳の補修で右側通行が禁じられておりました。市の記録に残っています。御者の言う『右から』は、そもそも人が歩けない場所です」
貴族の側の笑みが、固まった。
「証言は、揃えれば真実になるものではありません。事実と照らして、初めて意味を持ちます。──記録は、嘘をつきません」
主審はしばらく書面を検め、低く息を吐いた。
「……訴えを、棄却する。証言に重大な矛盾あり」
商人のガレオが、床に崩れ落ちるように頭を下げた。何度も、何度も。
私は、それを静かに見ていた。
喜びはない。ただ、事実が事実として扱われた。それだけのことだ。
「相変わらず、見事だな。コルネリア」
声に振り返ると、婚約者である王太子ジークハルト=ルクスエン殿下が、傍聴席から微笑んでいた。
「殿下。お見えでしたか」
「君の裁きを見に来た。正確で、隙がない。さすがアーレンスの娘だ」
褒め言葉のはずだった。
けれど、その響きには、いつもわずかな距離があった。
「ただ──あの商人、もう少し早く救えなかったのか。震えていただろう。証拠を並べる前に、まず安心させてやることもできたのではないか」
「殿下」私は静かに答えた。「安心は、無実を証明しません。証明できるのは、記録だけです」
ジークハルトは、少し困ったように笑った。それが、彼の癖だった。
そのとき、審理室の空気が、ふいに変わった。
扉が開き、白い衣の少女が入ってくる。傍聴席の貴族たちが、一斉に立ち上がり、頭を垂れた。
「聖女ミレーユ様だ……」
「神殿が、審理に立ち会われるとは」
平民出身でありながら、神殿に「慈悲の御業」を見出されたという少女。人の心の真意を視るのだと、王都中が噂していた。
ミレーユは、棄却されたばかりの商人ガレオに歩み寄り、その手をそっと取った。
「あなたの心は、澄んでいます。罪の影は、視えません。──だから、あなたは無実です」
商人は感極まったように泣き出した。傍聴席から、ため息のような感嘆が漏れる。
私は、その光景を見て、胸の奥にかすかな違和感を覚えた。
彼は無実だ。それは正しい。
けれど──彼が無実なのは、彼女に「心が澄んで視えた」からではない。証言が矛盾し、記録が彼を守ったからだ。
もし。
もし彼女が「この者の心は濁っている」と告げていたら。
矛盾した三人の証言は、それでも「真実」にされていたのではないか。
「素晴らしいお力ですわね、聖女様」
誰かが囁く。称賛の声が、さざ波のように広がっていく。
(……気持ちで、人を裁く)
私はその言葉を、口には出さなかった。
まだ、何も起きてはいない。証拠もない。
ただ、この日のことを、私は覚えておこうと思った。
いつか、記録に照らす日が来るかもしれないから。
お読みいただきありがとうございます。
証拠で人を救う令嬢と、心で人を裁く聖女。二つの「正しさ」が、これから静かに衝突していきます。
次話、王都を覆い始める「心で裁く」流行と、コルネリアに向けられ始める不審な視線を描きます。
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