第12話 飄々とした判事
裁定所を開いて、数日が過ぎた頃。
例の老人が、ふらりと納屋を訪ねてきた。
飄々とした、皮肉そうな目をした老人。リーゼを救った日、群衆の後ろで私を見ていた、あの人だった。
「やってるねえ、お嬢ちゃん」
彼は、勝手に納屋の隅の椅子に腰を下ろし、記録簿を眺めた。
「裁定所、ねえ。証拠で裁く、か。──で、何件、裁いた?」
「三件です」私は答えた。「いずれも、証拠を照合し、記録に残しました」
「ふうん」老人は、面白そうに笑った。「で、その証拠ってのは、誰が集めるんだ? お前さん一人でか?」
「今は、私とリーゼで」
「リーゼってのは、その、字を覚えてる嬢ちゃんか。──いいねえ。だが、お嬢ちゃん。一つ、教えてやろう」
彼は、にやりと笑い、声を低めた。
「辺境じゃな、その『証拠』ってやつが、燃やされるんだよ」
私は、彼を見た。
「……燃やされる?」
「ああ。お前さんが、いくら証拠を集めて、記録に残しても。それが、権力者にとって都合が悪けりゃ、ある日、その納屋ごと、火がつく。記録簿も、灰になる。──さあ、どうする?」
彼の目は、笑っていなかった。
それは、脅しではなかった。経験から出た、忠告だった。
「あなたは」私は、静かに問うた。「それを、見てきたのですね」
老人は、少し驚いたように、眉を上げた。
それから、長い息を吐いた。
「……俺は、ヴァルター。ヴァルター=ザントだ」
彼は、ゆっくりと続けた。
「昔は、王都にいた。──巡回判事だった。証拠で裁け、心証で裁くな、ってな。お前さんと、同じことを言ってた」
私は、息を呑んだ。
「巡回判事……王都の」
「ああ。だが、ある事件で、上にたてついた。証拠で、ある貴族の不正を暴こうとした。──そうしたら、どうなったと思う?」
「……証拠が、退けられた」
「退けられただけじゃねえ。逆に、俺が『私情で裁きを歪めた』と告発された。証拠じゃなく、『判事としての心証に欠ける』ってな理由で。俺は、職を失って、ここに流れ着いた」
私の中で、何かが、繋がった。
「……その告発をしたのは、まさか」
「大法官。マグヌス=フォン=オルデン」
ヴァルターは、吐き捨てるように、その名を口にした。
父を退けた、同じ名。
私を陥れた、同じ名。
「あなたも、マグヌス卿に……」
「あん? お前さんも、心当たりがあるのか」
私は、迷ったが、答えた。
「私の父も、マグヌス卿に職を追われました。──そして、私自身も、心証で断罪され、ここへ」
ヴァルターは、しばらく、私をまじまじと見た。
それから、ふっと、笑った。今度は、皮肉ではなく、どこか、温かい笑みだった。
「……そうか。アーレンスの、娘か」
「父を、ご存じで?」
「ああ。立派な判事だった。証拠の鬼でな。──俺の、先輩みたいなもんだ。あの人が追われたとき、俺は何もできなかった。それが、ずっと、喉に刺さってる」
彼は、立ち上がり、記録簿に手を置いた。
「いいか、お嬢ちゃん。──証拠で裁くってのは、正しい。だが、正しいだけじゃ、潰される。俺も、お前さんの親父も、それで潰された。お前さんは、同じ轍を踏むなよ」
「では、どうすれば」
「一つ。証拠は、一か所に置くな。写しを取って、何人もの手に分けて持たせろ。燃やされても、よみがえるように」
私は、頷いた。
それは、まさに、私が父の記録に対してしたことだった。原本は隠し、写しは別に持つ。
「もう一つ。──味方を、作れ。お前さん一人の正しさは、燃やせる。だが、町の皆が『あの裁定所は、正しい』と信じたら、燃やせなくなる。記録を、人の心の中にも、残すんだ」
ヴァルターの言葉は、重かった。
それは、敗北を知る者だけが語れる、本物の知恵だった。
「ヴァルターさん」私は、彼を見た。「私に、教えてください。辺境での、裁き方を。──証拠が燃やされる場所で、それでも証拠で裁く方法を」
老人は、しばらく私を見つめ、それから、深く頷いた。
「……いいだろう。久しぶりに、判事の血が、騒いできた」
その日から、ヴァルター=ザントは、私の師になった。
お読みいただきありがとうございます。
飄々とした老人の正体は、元・王都の巡回判事ヴァルター。彼もまた、大法官マグヌスに潰された「証拠主義の先達」でした。そして彼は、コルネリアの父の後輩でもあった──二代にわたる戦いが、ここで繋がります。
「証拠は一か所に置くな」「人の心にも記録を残せ」。敗北を知る者だけが語れる知恵が、コルネリアの武器になっていきます。
次話、その知恵が試される事件が起こります。辺境の権力者・代官ボルツの影が忍び寄ります。
ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです。




