第11話 鐘と記録簿
リーゼを救った翌日から、私は、辺境ヴェルデで暮らし始めた。
町外れの、使われなくなった古い納屋を借りた。家賃の代わりに、私は持っていた筆記具の一部を差し出した。狭く、隙間風の入る場所だったが、不思議と、気は楽だった。
最初の「依頼」は、その日のうちに来た。
「……あんた、昨日の人だろ」
納屋の戸を叩いたのは、リーゼだった。
彼女は、警戒と好奇の入り混じった目で、私を見ていた。
「あんた、本当に、裁く場所を作るのか」
「ええ」
「字も読めねえ奴のことも、裁いてくれるのか」
「証拠は、字が読めなくても、持ち寄れます」私は、頷いた。「むしろ、字が読めない人ほど、声で言いくるめられて、損をしてきたはずです。──そういう人のために、この場所はあります」
リーゼは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……あたし、字、読めねえ。でも、覚えるのは、得意なんだ。一度見たものは、忘れねえ」
「それは、立派な才能です」
「だから……あたしを、ここで、使ってくれよ。あたし、行くとこ、ねえんだ」
私は、彼女を見た。
痩せて、目つきは鋭いが、その奥に、まっすぐなものがあった。
「いいでしょう」私は、答えた。「あなたを、記録係の見習いとして、雇います」
「き、記録係?」
「ええ。あなたが見たこと、聞いたことを、私が文字にして残す。あなたは、その目で、見落としを防ぐ。──大事な役目です」
リーゼの顔が、ぱっと明るくなった。
彼女が、初めて見せた、子どもらしい表情だった。
その日、私は、二つのものを用意した。
一つは、鐘。
古道具屋で見つけた、ひびの入った小さな鐘だった。裁定を始めるとき、終えるとき、これを鳴らす。「今から、ここで裁きが行われる」と、誰にでも分かるように。
「なんで、鐘なんか鳴らすんだ」リーゼが、不思議そうに尋ねた。
「裁きは、隠れて行ってはいけないからです」私は答えた。「誰の目にも、開かれていなければならない。鐘は、その合図です。──こっそり裁くのは、力で裁くのと、同じくらい危ういのです」
もう一つは、一冊の、分厚い帳面。
記録簿だった。
「これに、すべてを書きます。いつ、誰が、何を訴え、どんな証拠が出て、どう裁かれたか。──一件残らず」
「全部?」
「全部です。──たとえ、今日は誰も読まなくても」
私は、父の言葉を、思い出していた。
『記録は、弱い者のためにある。誰も読まなくても、書き続ける』
帳面の一ページ目に、私は、最初の一件を記した。
『一件目。少女リーゼ、窃盗の嫌疑。──銭箱の鍵に異常なし、こじ開けの跡なし。銀貨は底板の隙間より発見。よって、無実』
ペンを置くと、リーゼが、横から帳面を覗き込んでいた。
「……これが、あたしのこと?」
「ええ。あなたが、無実だったという記録です。これは、消えません。誰かがまた、あなたを盗人だと言っても──この記録が、あなたを守ります」
リーゼは、文字を読めなかった。
けれど、その帳面を、まるで宝物のように、じっと見つめていた。
「……あたしが、無実だって、ここに、ずっと残るのか」
「ええ。ずっと」
彼女の目に、うっすらと、涙が滲んだ。
すぐに、彼女は、それを乱暴に拭った。
「あたし、字、覚える。早く、自分で読めるようになる。──そんで、いつか、あたしも、誰かの『無実』を、ここに書くんだ」
「楽しみにしています」
その日から、辺境ヴェルデの片隅に、小さな「裁定所」が生まれた。
鐘と、記録簿と、字を覚え始めた少女と、追放された令嬢。
それが、すべてだった。
誰も、これがいつか王都を覆すことになるとは、思っていなかった。
私自身でさえ。
お読みいただきありがとうございます。
辺境裁定所が、ついに産声を上げました。「鐘」は開かれた裁きの象徴、「記録簿」は弱者を守る盾。そして記録係見習いとなった少女リーゼ──字が読めなかった彼女が、いつか誰かの「無実」を書く日を夢見ます。
この鐘と記録簿が、物語の終盤、王都の心証主義を追い詰める「証拠の山」になっていきます。
次話、コルネリアを見ていた飄々とした老人の正体が明かされます。
ブックマーク・評価、心より感謝いたします。




