連行
黒岩谷の霧は、まるで人を飲み込もうとするかのように濃かった。
雪誠はその場に立ち尽くし、仮面を外した。 手には折れた木剣だけが残り、瞳は空虚だった。
どこへ向かえばいいのか—— どうやって彼女を救えばいいのか—— 彼には、もうわからなかった。
—
「おい、人間か?」
霧の中から声が響いた。 若く、明らかに敵意を含んだ声。
雪誠が顔を上げると、岩の上に魔族の少年が立っていた。 尖った耳、赤い瞳、手には短槍。 その目は警戒に満ちていた。
少年は岩から跳び降り、数歩近づく。 冷たい口調で言った。
「なんでここにいる?人間が来る場所じゃない。」
雪誠は答えず、ただ自分の手を見つめていた。
少年は眉をひそめ、槍を構える。
「迷ったのか?それとも、盗みに来たか?」
雪誠は動かなかった。
少年はしばらく彼を見つめ、鼻で笑った。
「誰であろうと、ついて来い。逃げたら、脚を刺す。」
—
雪誠は抵抗しなかった。 ただ、導かれるままに歩いた。 まるで、糸の切れた人形のように。
—
魔族の村は、黒岩谷の裂け目の奥に隠れていた。 低い石造りの家々、紫色の灯火、静かな空気。
少年は雪誠を押しながら進み、道中何度も警告を発した。
「Vek'thara silen'uun.」——見るな。 「Khal'ren tovar'eth.」——触るな。 「Zel'vakar min'dros. Vek'thalan or'kai.」——嘘をついたら、後悔させる。
雪誠は、かつて魔語を学んでいたことを幸運に思った。 少なくとも、脅しや警告の意味は理解できた。 それがなければ、この異郷の村で、彼はさらに混乱していただろう。
だが、言葉を理解しても、心は落ち着かなかった。 彼はリーヴのことを思い出す。 彼女も、こんな言葉と視線の中で、孤独に立っているのだろうか。
その不安は、霧のように心を覆い、離れなかった。
村人たちは彼らを見つめた。 その瞳には驚き、嫌悪、好奇——さまざまな感情が混ざっていた。
「Vel'kaan thir'uun?」——人間か? 「Khar'ven dosh'kai vel'tharan?」——こんな奴がどうしてここに? 「Zel'kaar ven'dros ak'thal?」——誰の差し金だ?
だが、誰も「使徒」には触れなかった。 魔族は、そんな存在を知らなかったのだ。
—
少年は雪誠を一つの空き家に押し込んだ。 入口には二人の魔族の衛兵が立っていた。
「Vel'drakar byn'kai.」——捕まえた。 少年は衛兵に言った。 「Thalan'uur vek'sorin.」——長老の判断を待て。
衛兵は頷き、雪誠を腐った肉でも見るような目で見つめた。
—
部屋の中には何もなかった。 ただ一つ、石の寝台があるだけ。
雪誠はそこに腰を下ろし、壁を見つめ、目を閉じた。
彼は抵抗しなかった。 逃げようともしなかった。
彼は——リーヴを失い、道を失った。
だが、まだ生きていた。




