28、変わらないもの
物心ついた頃から、ミルには泣いた記憶がない。泣く必要が無かった。出来ないことはなかったし、手に入らないものは無かったし、ラトルの気を引けなくてもそれはいずれでいいし。
具合が悪くて苦しんだことも、物語を読んで心を動かされたことも、転んだ痛みに視界が滲んだこともない。まあ、それらを総じてしまうと可愛げが無いということになるのかもしれないが。
別にミルが自らの意志で泣かないようにしていたということはなく、単にそこまで感情を揺さぶられるような出来事が人生になかっただけだ。
努力せずとも大体何でもできて、頑張らなくても概ね結構持っていて。
そんなミルが、今まで手に入れようと藻掻いていた唯一がラトルだった。
ミルは、泣いていた。
これまでの人生で溜めこんできた分を、全て流すように。
「……ほんとに?」
その再確認の言葉に、一瞬躊躇った。ここで間髪入れずに本当だと答えるのは容易いことだ。だがそれは、いよいよミルの退路を塞ぐことに繋がる。いつか来るかもしれない後悔の日、目の前の才媛は自分から逃げられなくなるのだ。それは本当に正しいことなのか。ここで嘘だと言って、今更でも傷つけてでも、逃げ道を用意しておくのが人間としての道理なんじゃないのか。首を縦に振ることが一時の享楽を得るだけと何が違うのか。謝って忘れてくれと懇願して、泣いているミルをさらに泣かせるとか、それこそあまりに馬鹿げている。
軽率にも野暮ったい思慕を吐いてしまったラトルは、自分自身の底抜けの愚かさに小さく嘲笑する。
「……ごめん、本当。こんな、雰囲気もへったくれもあったもんじゃない状況で言うことじゃないとは思うんだけど……、いや本当ごめん……」
自分に自信がない人間はこういう時に厄介だ。口から出した言葉をすぐに後悔する。吐いた唾は吞めないように、一度口にすれば無かったことになどできないのをわかっていながら。
ラトルの顔色は紅潮とは真逆の蒼白だ。完全に血の気が引いている。叶うなら部屋から飛び出してしまいたいくらいだが、それを必死に耐えているのだ。
好きな女が目の前で泣いているのにその態度はなんなのかと、この場にデネッセがいたら間違いなく怒鳴っていただろうとラトルは思う。自分でも思うから想像が容易なのだ。
小言を言うのは昔からデネッセの役目で、ミルやラトルがすぐに、デネッセだったら今の状況を見てこう言うだろうなと考えてしまうのはそういう由来がある。
そういうあれこれが面倒になり、もう結婚しちゃえばという半ば投げやりとも言える助言を放り投げた結果、事態は動いたわけだが。
「いや、別に悲しいわけじゃないよ。まあ、こんな黙ってるわけにいかないみたいな状況じゃなくて、溢れる思いが抑えきれないみたいな告白の方が良かったのは確かだけど、それでも嬉しい」
涙を袖口で拭いながらの言葉は、フォローというより追い打ちだった。しかし当然の話だった。今のラトルはミルからすれば、退路がなくなったからようやく白状する犯人のようだ。
ここまで追いつめないと本心を打ち明けてくれないのは、自分の幸せとか今後の人生とかそういうの関係なくもう望み薄なだけではと思ってしまうのも無理はない。
嬉し涙でもあり、ここまでしないと心を開いてもらえない時分の不甲斐なさへの涙でもあった。
ラトルは勘違いしているが、今の状況において退路を塞がれているのはミルではなくラトルだ。
なにせこれは男性側の意見を無視した結婚であり、しかし離婚すれば傷が付くのは女性側。後から知ったとしても、実質離婚という選択肢は初めから無いようなものだ。
ただでさえ学生ながら、才能に恵まれた令嬢として知る人ぞ知る存在になっているのだ。離婚したとしても、誰もミルに責任があるとは考えないだろう。
とはいえミルがそこまで考えているわけではなく、悪巧みを働かせたのはデネッセだが。
『恋愛経験値ゼロで無自覚両片思いの拗らせカップルのお守なんていつまでもしてられるわけないでしょ!! こっちだって別に暇じゃないのよ!!』
この件について問い詰めたら、そんな風に怒り心頭になることは避けられない。特に『最悪の一日』関連の出来事は最悪だった。デネッセとしては苦い記憶でしかない。
当てつけのために第二王子を使う親友も、日に日に自分の凡庸さに病んでいく幼馴染みも、そのせいで淀んでいく学園の空気も、何もかも全てが泥のようだ。
特に親友が最悪だった。
未来のことを見ているようで、夢しか見えていないその目に、どうにか現実を映してやりたいと思ったものだが、なまじ才能があるせいでそこそこ上手く行っているという地獄。
しかし、膨らみ過ぎた風船のように、割れるか、あるいは萎むか、それは想像が難しい未来ではなかった。
「……俺は、お前のことを何も知らない。甘いものが好きなのは知ってるけど、それだって昔の話だ。聞こうとも思わなかったし、お前も話してこなかったし、だから……、この好きっていうのは、不純なんじゃないかって思った」
ミルは内心冷や汗をかく。ミルはラトルを知っているのだ。
チョコクッキーが好きとか、豚肉が好きとか、人参が嫌いとか、マナーが苦手とか、読書が好きとか、本の内容は特に選ばないとか、権力を避けがちとか、フルーツティーが好きとか、朝に弱いとか、昼食をがっつり食べるとか、夜眠くなるのが早いとか、家の使用人から頼りない息子みたいに見られてるとか、眠い時に首の後ろを撫でる癖があるとか、昔ぶつけて以来少し変な形になった足の爪を気にしているとか、アルコールの臭いが苦手とか、字のバランスを取るのが下手でよく練習しているとか、紙に線が無いと文章が上下に曲がるとか、整理整頓が下手とか、手を動かす前に考えすぎて結局時間だけ過ぎるとか、常連の本屋の店主に姿勢について怒られてるとか、前期の成績とか、テストの点数とか――後ろでどれだけ足音が響いても、全く振り向かないこととか。
もっと知っている。どうでもいいことを知っている。
でも、自分を教えたことはない。
知っていれば、それで満足だったから。
「お前の外見だけが好きなんじゃないかって、お前の優秀で誰からも褒めそやされるところが好きなんじゃないかって、隣にいたら俺もいい感じに見られるとかそういう打算ありきなんじゃないかって」
「…………」
「……お前が何でもできるようになる前から好きだったけど、それもいつの間にか、自信がなくなった」
出会った頃はこんなではなかった。初対面時、ミルはどこにでもいる子供だったし、当時のラトルにとってはどれだけ美少女でも性格の合わない人間と仲良くなる気などなかった。
だから、好きになった。
一年後にはそんなこと言えなくなった。
口にした瞬間に嘘っぽくなってしまいそうで、黙って、もっと言い出せなくなって、その繰り返しで一度も言わずにここまで来てしまった。
せめて一度でもどこかで言っておけばよかったのだ。昔から好きだったと。今も好きだと。天才とかそういうの関係なく好きなんだと言っておけば、こんなことにはならなかった。
行き過ぎた誠実さは、いつしか不誠実の極みを形作っていた。
想いの一つも、まともに伝えられやしない。
「今更お前のことを聞くのも、何も知らないって言ってるみたいで、言えなくて……」
「……ごめんね。そうだね、思い返してみると、私たちってまともな会話してた時期無いね」
「……まあ、今思うと、多分俺が褒め過ぎたんだな、お前のこと。そういえばなんか、会うたびに大体褒めざるを得ない話題を用意されてた気がする」
そう言われると何だか私が褒められようとして色んな才能を開花させたみたいな、と思うミルだが、あながち間違ってもないことにすぐ気付く。
八歳を過ぎた頃は普通の子供で、ラトルと一緒に身体を動かして適当に遊んでいた記憶がある。歳の折り返しくらいになんだか勉強が上手くいって先生に褒められたことがあって、自慢と言うならそれが最初の自慢になった。
そして褒めてくれた。俺まだそこわかんないやとか、ひょっとして天才なんじゃないかとか、そういうことを言われた。嬉しかったのだ。両親の言葉よりも嬉しかった。
それ以降、何かが捗ったりするたびに報告するようになった。いつの間にか会うたびに報告することが増えていき、会話はどんどん一方通行になっていった。
それでも褒められたくて、嬉しくて、自分が何もかも出来るようになっていることにしばらく気付かなくて、会う時間が自画自賛の時間でしかないことにはとうとう自力では気付けなかった。
ミルの顔が一気に熱くなる。
好きな相手に褒められたかっただけって。
「……話そう」
「え?」
「話そう。私のこと、教えるから。私のことを知ってほしい。好きな人に自分を知ってほしい、って言うのが、ちょっと遅いかもだけど……」
「……ははっ。お前は昔から変わんないな」
「……変わったんじゃなくて?」
「変わんないよ。お前は昔から犬みたいだ。忠犬だな。俺が喜ぶことばっかりしてくれるんだから。……変わらなきゃいけなかったのは、俺だったんだよ」
自分が昔から変わらなかった。だからミルも変わらなかった。それが全てで、それで全てだ。今回のことは何もかも、自分が周りに無頓着だったから起きたこと。
後悔の気持ちは今もなくならない。もっと早く何か行動していれば、きっと誰も傷付かない道があったはずで、それを尽く封鎖してきたのはラトルだ。
だから、一旦忘れよう。
今に向き合わなくてはいけない。
過去の失敗を振り返るべきは今じゃない。もうどうにもならないことは多いが、まだどうにでも出来ることだって同じくらい多いはずだ。懺悔はその後にしよう。
変えて、変えられ、それでも変わらないものは、確かに存在するのだから。
「……これからよろしく」
「……こちらこそ」
ミルは綻ぶような笑顔を浮かべた。
ラトルが好きだった、昔と同じ笑顔だった。




