25、私の世界は
昔から、なんだかなんとなくモヤモヤを抱えながら生きてきた。具体的に何がどう不満とか、何がどう気に食わないとか、易々と言語化できるようなものではなかったけれど、周囲の誰も、私と同じようなモヤモヤを抱えていないのは何故なのかと疑問に思ってしまう程度には、私の人生にそれは付き纏った。
よくよく考えてみれば、なんで私がそのモヤモヤを周囲の人間が持っていないのかと疑問に思えた事こそが、疑問に対する直接的な答えのようなものだったのだけれど、私が私の異常性を理解できていない時分では、そこまでたどり着くことは出来なかった。
私の世界は非常に狭く、私の視界は非常に狭かった。あるいはそれは境とも言えたのかもしれないけれど、無意識のうちにそういう風に仕分けしながら生きてきた私にとって、その内側に入ってくる新しい何かはいつだって待望のそれで、そういう意味では、ラトルを見つけられたのは本当に幸運だったと言える。
今までの人生で感じたことの無かった幸運という概念を、私はラトルと出会ってようやく実感したのだ。その後の婚約の要望が、針の穴に糸を通すように簡単にすんなりと通ったのは、幸運というにはもう怖いほどで、人間には運命があるのだと確信したのはこの時だった。
人生の重要な区切りは既に決まっていて、ラトルという運命の人と意気投合したのも、婚約を拒絶されなかったのも、会うたびに重ねて好きになっていったのも、何もかもが運命。きっと私は前世で開いた口が塞がらないほどの善人だったに違いない。そうじゃなければ説明がつかない。
それからしばらく経って、私はようやく自分が抱えているモヤモヤの正体を突き止めることが出来た。臭いだ。両親やシャッハトルテ家の人たちからはしないが、使用人や外で会う他家の人たちから、鼻を摘まむだけでは対策のしようもないほどの悪臭がするのだ。
臭いの強弱は人によって異なり、うちで働いてくれている侍女なんかはほんのり香る程度で、ちょっと趣味の悪い香水くらいのものだが、嫌な目線で私を見てくる他家の令息なんかからは吐きそうなほどの臭いが漂ってくる。それに感じているのが私だけなのは、これまでの人生で十分に理解していた。
そんな私の変化に気付いてくれた数少ない人間が、両親と義理の両親、ラトルやデネッセだった。結局私は今まで自分のそんな特技、あるいは呪いを誰かに話したことはない。ああ、第二王子になんとなく言ってしまったけれど、誰に教えるまでもなく勝手に死んだからまあ問題ない。
気付いてくれて、且つ、嫌な臭いがしない。だから私はラトルが好きだし、デネッセは親友だし、紹介されたユークテッドとも友人でいられる。他の誰とも共有できないこの特殊な嗅覚が感知していたのが、どうやら悪意だということに気付いたのは九歳を少し過ぎた頃だった。
大体の人間から嫌な臭いがするので引きこもりがち、関わるとしても上記三人くらいだった私を両親は随分心配したらしいが、それはそれとして身体は驚くほど健康で元気だったので、実際に何かを言われることはなかった。昔の私が病弱だったから、それと比べれば、ということなんだろうと思う。
その結果として、私はラトルに依存した。ラトルを逃がしたら私って死ぬんじゃないかと思う程度には依存した。手を振ってまたねって言うのが苦痛だった。本当は一緒に住みたいし、一緒にご飯食べたいし、一緒にお風呂入りたいし、一緒に寝たいし、一緒に朝起きたい。
でも、ラトルはそうじゃない。私に依存なんかしてない。私に恋なんてしてない。私を愛してない。嘘を吐きたくなかったのか何なのかはわからないけど、ラトルは一度も私に好意を伝えてきたことがない。それがどうしようもなく辛かった。どうしようもなく苦しかった。
その行動の全てから悪臭が、悪意が伝わってこなかったのも私の苦しみに拍車を掛けた。隠すものが無いのだ。後ろ暗いところがない。何かに悩むような素振りがあっても、それは私に向けられたものではなく、だからこそ私じゃ見抜けない。
私がラトルの困った顔が好きになったのは、そういう欲望をなんとなく認識し始めた頃。なんだかわからないけど、やることなすこと何もかもが上手くいくようになった九歳の頃。その顔は、私のことを考えてる顔だった。私のことだけを考えてる顔だった。私がラトルを縛り付けるのに成功した時の顔だった。
諸刃の剣だった。いつか自分を傷つけることになるのをわかっていながらラトルを傷つけ続けた。その傷は私が付けたの。だから私を忘れないで。その恨みは私に好きなだけ発散して良い。だから私から離れないで。本人に返さなきゃ晴れないでしょ。だから、お願いだから。
私の言う『大いなる計画』とは、結局のところ私自身の欲望に帰結する。いつか爆発したラトルが私を襲えば、善良なラトルは責任を取らざるを得ない。そのための計画。そのための悪意。感じないだけで、きっと私は誰よりも臭かったはずだ。
そうなればラトルは私に依存するはずだと私は信じた。妄信した。それだけでよかった。必要以上に持て囃される頭も身体も能力もいらないから、ラトルだけは手放せなかった。不意に、その欲望はどこから始まったのかを考えたことがある。
いつの間にかだったと言えば、いつの間にかだった。きっかけをあえて捻出するなら、きっとこの鼻だ。ずっとラトルからは良い匂いがしていた。いつまで嗅いでも飽きない、幸せになる匂い。この鼻の正体に、私は見当がついていた。
私の身体に溢れている魔力、漏れ出たそれが鋭敏にしたのが偶然嗅覚だったのだ。そして通常感じ取れない領域まで到達したのが、この悪意を感じ取り、運命の相手を見つけることが容易になるという能力だった。
膨大な魔力の持ち主が通常持ちえない拡張された五感を持っている例というのは、調べてみれば意外と見つかった。両手の指で数えられる程度だったが。まあ、申告しなかっただけでもっといたのだろう。私のように、自分の私利私欲のためだけに使った人たちが。
わかりやすく言うなら、現在ラトルの左腕に残ってしまった『魔力循環不全』が良い方向に働いた結果の副産物が私の鼻だ。魔力が少し多めに鼻に流れ、通常はありえない機能を獲得した。幼少時の虚弱さも、多分これに原因があるのだと思う。
いつまで経っても私が望む『取り返しのつかない失敗』をラトルが犯してくれないまま時間は流れる。日に日にラトルの顔は曇っていく。私はそれに罪悪感を抱きながらも、それを与えているのが私だという歪んだ嬉しさを隠しきれなくなる。
善良な人間が爆発したとき、どういう行動を取るのかが、善良ではない私には分からなかった。多分、デネッセはわかっていたのだ。私にはラトルしかいないが、ラトルには私しかいないわけではないということを。爆発が不発に終わる可能性を、彼女は理解していた。私はそれを教えられたとしても、今更引き返すことがないだろうというのも。
あの日、疲れてしまったような顔のまま私から離れていった愛する婚約者は、次に顔を合わせた時、死にかけていた。私のせいだった。私が安全を確保しないままに、感情のままに何もかもを終わらせたせいで、ラトルはそのとばっちりを受けた。
何度声を掛けても返事をしてくれない。そんなことは初めてだった。いつもみたいに多少無理をしてでも笑ってくれない。これだけ嫌な思いをさせてくる相手に対しても、悪意が無いから悪臭もしない。良い匂いをいつまでも嗅いでいたい、そんなラトルが目の前でどうしようもなく死にかけている。
気付かなかったのだ。学校の生徒、貴族だろうが平民だろうが、大体の人間は悪意のある言葉を平気で口にする。そのせいで学園は私にとってゴミ箱以下の場所だった。だから、その悪意がどこに向いているのかなんて気にしなかった。思考を放棄していた。
寄りにもよってラトルにその矛先が向いていたなんて、わかるはずがなかった。全ては言い訳だ。私が真っ当にラトルの傍に居れば防げたはずの最悪。でもそれじゃあ駄目だった。それじゃあ、ラトルは私に依存してくれない。私無くして生きられない状態になってくれない。
私はどうしようもなく歪んでいる。左腕の傷痕は、やろうと思えば残さずに治すこともできた。でも残した。魔力管に若干の損傷があるのにも気づいたが、それを意図的に放置した。私がラトルの近くにいる口実になると思った。
私がいないといけない理由が欲しかった。でもデネッセは婚約を解消されるかもしれないと言った。そんなはずがないと信じたかったが私は結婚を強引に進めた。少し不安そうな顔を見せれば反対する人はいなかった。
ラトルの部屋で二人きりになるのは難しいことではなく、その幸せを噛み締めながらいっそのこと、このまま起きなければいいのにと思う自分を何回も自分で殴った。傷は部屋の中で治していたから誰にも気付かれていなかったと思う。
結婚を強引に進めた私をラトルは憎むだろうか。その鬱憤を私で解消してくれるだろうか。性欲でも肉欲でもなんでも私には受け入れるだけの覚悟がある。そのくせ、いざラトルが目覚めたら拒絶されるのが怖くて会いに行けないなんて、笑い話にもならない。いや、笑える話なのかも。
三か月半に渡る生徒会長の業務は、心に影を落としていた漠然とした不安を誤魔化すのに役に立ってくれたが、ラトルを苦しめていた生徒のために何かをしなければならないという苦痛との板挟みで、来年度も継続することは絶対にありえない。
いますぐにでも投げだして会いに行きたい。抱き着きたい。謝りたい。添い寝したい。それを許してくれる未来が見えない。依存は共依存にはならず、『取り返しのつかない失敗』を犯したのは私だった。
都合の良い話なのは自覚してる。でも、お願い。聞いて。私を嫌いにならないで。何でもするから。尽くすから、媚びるから、侍るから、阿るから、従うから、諂うから。奴隷でもなんでもいいの。だから。お願いします。許してください。
恥ずかしげもなく貴方の前に現れる私を、どうか拒絶しないで。




