ケット・シー
ウンディーネが中立の契約を破り東方人側につくと、交渉が難航していた海の支配者サーペントも水の精霊の後を追うように文月の申し入れを受け、東方人へ協力することを約束した。
悪魔は地獄を統治している事もあり火属性と関係が深く、ネビロスやバルベリスは自在に炎を操る事が出来た。
その火属性は水属性とは相性が悪く、そう言った意味でもウンディーネやサーペントが敵対するのはあまり芳しくはないニュースであり、その影には地竜の暗躍も囁かれていたため、レヴィアタンとしては忸怩たる思いであった。
サタンは討伐部隊に対して早急に東方人を殲滅するよう、改めて大号令を発したため、蠅王ベルゼブブは期待に応えるため昼夜を問わず進攻する事とし、進攻先にある村や町で暮らす種族らも東方人捜索のために駆り出され、命令に従わない者達は容赦なく殺されると、すぐにアンデッドとして働かされた。
そんな地獄のような西側とは対照的に、東の屋敷ではボッシュらが退屈な日々を過ごしていた。
そもそも赴任すると聞いていたアスタロトは全く姿を見せず、これと言った追加命令も無いため、屋敷の周辺を捜索する以外、特にやる事が無いのだった。
そこでボッシュは火口で卯月と会ったことから、シャフローネ山の麓に東方人らが隠れているのではと直感し、交代で何時間も掛けてシャフローネ山の麓まで飛んで行き、上空から偵察をおこなっているのだが、今のところ何の成果も上がっていなかった。
コスメールは東の屋敷を拠点にして、遥々長距離を往復するのは非効率すぎると文句を言ってきたが、少なくともアスタロトが来るまでは屋敷を空にする事は出来ないため、渋々ボッシュの命令に従っていた。
そのような日々がどれくらい続いただろうか。
深夜に届いたメッセージによって屋敷の中は途端に慌ただしくなった。
「アスタロト様がもうじきお見えになる!お迎えの準備を!」
東方人の行動時間に合わせて、今では昼間に行動するようになっていたボッシュらは、深夜と言えば完全に眠りについていたのだが、アスタロトが来るとなればそんな事を言っている場合ではない。
慌ただしく鎧を着こむと、屋敷の外でアスタロトを待った。
しばらくすると、闇の中から翼竜<ワイバーン>の咆哮が聞こえてきた。
三人は星降る夜空を見上げると、深緑色の翼竜が大きな翼を広げて滑空してくるのが見えた。
ワイバーンは公路に沿って高度を下げ三人の目の前に滑るように着陸すると、首を下げ背を低くする。
翼竜の鞍から地上に降り立つ漆黒のローブ姿の女性は、紛れもなくアスタロトであった。
「久しぶりですね?三人とも」
「「お待ちしておりました。アスタロト様」」
三人は跪いて口をそろえて頭を下げる。
ボッシュはスッと立ち上がり、アスタロトを屋敷の中に招き入れると、薄暗い大広間の檀上に用意した椅子に案内した。
騎士団の三人は壇下にて、ボッシュを先頭に少し下がってマールシェとコスメールが並んで跪く。
「これより現状の報告と今後について話したいと思います」
アスタロトの言葉に三人は顔を上げて檀上に座るアスタロトを見る。
「先ずは西の東方人討伐軍ですが、大陸の3分の1ほど……『フーガの森』の手前まで進軍しています。引き続き東進し約2ヶ月ほどで大陸全土の討伐が完了する予定です」
「何と。たった2ヶ月とは、さすがはベルゼブブ様です」
「ベルゼブブだけの手柄ではありません」
ボッシュの発言が気に入らなかったのか、アスタロトが冷たい視線を投げつけながら強い口調で答えた。
「他の3人の悪魔たちの協力がなければ達成できない作戦なのです。また、私もこちらに赴任する道中、北側の捜索を行いながらここまでやってきました。私の着任が遅れたのはそれが原因ですが、結果的には大陸中の捜索という観点から見れば、かなり貢献していると思います」
「恐れ入りました」
ボッシュはそう言って頭を下げたが、結局は自分も頑張ったと言いたいのであり、No2のベルゼブブだけの手柄だとは思われたくはないだけじゃないのか?……などとは口が裂けても言えないだろう。
「さて、今後の作戦行動についてですが……」
そう言ってアスタロトはひざまずく三人を見ながら少し間を取ると更に続けた。
「平地は討伐軍に任せ、我々はシャフローネ山全域が担当範囲となりました。これに伴い、拠点を『ガゼ』に移す事とします」
「……ちょ、ちょっと待って下さい。シャフローネ山全域を我々だけで担当するのですか?」
ボッシュが慌てて質問すると、アスタロトは短く答えた。
「そうです」
「………」
やれと言われればやるしかないのがこの世界。だが、大陸の森林はこのシャフローネ山周辺に集中しており、木々が邪魔で上空からの捜索には限界があることから、本気で捜索するには地上に降りる必要があるのだが、この人数では何年かかっても終わらないだろう。
そのような事はアスタロトも重々承知しているはずであり、何も策が無いという事はないはずだ。ボッシュもそれがわかっていたので、これ以上、この件について話をするのは止めたが、どうしても別の事で尋ねる必要があった。
「もう一点確認させて下さい……拠点を『ガゼ』に移すとお聞きしましたが、あの地はケット・シーが暮らす場所ですが?」
「そのような事は知っています」
アスタロトは即答したが、なおもボッシュは食らいついた。
「ケット・シーは中立を表明しており、魔族としても積極的にあの地へ行くのを避けてきたはずです。もしも中立地を侵犯した場合、他の中立種族の反感を買う恐れがございますし、あのケット・シーが簡単に協力してくれるとは思えません」
「それもわかっています。ケット・シーには軍事協力を求める訳ではなく、単にシャフローネ山の捜索期間中に宿を借りるだけ。それ以上の事を要求するつもりはないし、彼らの中立を尊重し、領内での戦闘行為も禁止します。これで何も問題は無いはずです」
「……承知しました」
ボッシュはそれしか言えなかったが、恐らく一筋縄ではいかないと考えていた。
相手はあのケット・シー……大陸で一番狡賢い種族だ………。
翌日の夕方──。
西の空は薄らとオレンジ色となり日差しが弱まった頃、アスタロト率いる5色騎士団は『ガゼ』に向けて屋敷を飛び立った。
5色騎士団のヒポグリフには車を引かせており、その中には東方人らが残した様々な生活物資が詰め込んであった。そのため、ボッシュらは車内ではなくヒポグリフの背中の鞍に座っていた。
東方人は飛ぶ手段を持たないため、基本的に空の移動は安全のはずだったが、ザライドマセルのこともあるので、油断することなく地上に目を光らせながらの飛行であった。
南の砂漠地帯を抜けてしばらく西進すると、大きな川が現れる。
その下流に大きな中州があり、そここそが『ガゼ島』と呼ばれる場所であり、2本の川に挟まれ、海にも面した肥沃な土地であった。
このガゼ島は元々は人間が住んでいた地域であったが、悪魔との戦争で無人となった所に、山から下りてきたケット・シーが住みついたのだ。
島には大きな風車が3基ほど建てられており、ガゼのシンボルとなっていたのだが、これを建てたのももちろん人間だった。
深夜となってボッシュの眼下にはその大きな風車が見えてきた。
ケット・シーは大陸に住む大半の生き物と同じく夜行性であるため、上空からやってくるボッシュらの姿はいち早く発見しており、こちらの様子を逐一監視しているようだった。
アスタロトは一応、正面の城門に降り立ちケット・シーを統べる王への謁見を申し入れたが、これはあくまでもポーズであって、もしも拒否されれば問答無用で攻撃することも厭わなかった。
だが、ケット・シーの王はすぐに面会を申し出て来たので、一先ずは無駄な血を流すことなく王宮に入る事が出来た。
ケット・シーの容姿は簡単に言えば『二足歩行の猫』であり、一説によれば、神が人間を創造するために、様々な生物で実験を試みた結果、この世に生み出されたのが彼らであり、同じような仲間には、犬人<クー・シー>、蜥蜴男<リザードマン>、狼男<ワーウルフ>等である。
猫人<ケット・シー>は神によって比較的後期に生み出されたためか、生物としての完成度は高かったのだが、如何せんベースが猫であるため、器用さは大幅に人間より劣る。そのため、この町の建物や衣類等、生活に必要なものは人間が残したものをそのまま流用しており、不足している物は手先が器用なドワーフらから入手していた。
アスタロトらは王宮内に通されたのだが、何故か大広間ではなく王の私室に案内された。
これは明らかに魔族の来訪を歓迎していない事を示しており、なるべく秘密裡に対応しようとしている事が見え見えであるため、ボッシュはあからさまに不満な表情を浮かべながら、アスタロトの後ろで5色騎士団の二人と共に控えていた。
王の私室はそれほど広くなく、部屋に入ってすぐに所謂応接セットがあり、窓際には執務用のデスクが置かれていた。
椅子にはアスタロトが座り、ローテーブルを挟んで対面に、冠を頭に載せたケット・シーの王が座っていた。
「これはこれはサタン様の左腕と呼ばれるアスタロト様が、こんな場所までよくいらっしゃいました。一族の王として歓迎いたします」
全く心にもない事を平然と穏やかな表情で言ってのける王。
アスタロトは魔法で自身の体から流出する毒を抑えていたのだが、この発言を聞いて、毒を解放して一瞬にして毒殺してやろうかと脳裏を過ったが、何とか自制することに成功した。
「ケット・シーが中立を宣言している事は理解しており、サタン様もそれを認めています。だが、現在東方人らを殲滅するために大陸全土を虱潰しにしているところです。これは中立地帯も例外ではなく調査対象となっています。従って私達がこの地に訪れた理由は、この町を立ち入り調査すると共に、周辺地域を調査するための拠点としてこの町にしばらく世話になりたいからです」
アスタロトがこの町に立ち寄った理由を説明すると、王は表情を変えずにニコニコしながら対応する。
「なるほど、それはご苦労なことです。ですが、この町には東方人などと言う輩はおりませんので、町の調査は不要でございます。また、中立である以上、この町を東方人討伐の拠点とするのも戦争協力となりますので、こちらもお受けしかねますが……」
つまり王はアスタロトの申し出を真っ向から拒否すると言っているのだ。これでは全く交渉の余地も残されていないではないか。
さすがにアスタロトの語気も荒くなる。
「王よ。貴殿らに拒否権は無い。我々に協力しないという事は、敵対勢力とみなすがそれで良いか?」
力で支配している以上、最終的には力でわからせるのがこの大陸での道理というものだ。
「いやいや、アスタロト様。我々は敵対しているのではなく、あくまでも中立の立場なのです。中立である以上、魔族にも東方人にも関与する事はできません。それなのに、我々の考えを敵対とみなされては、中立の意味とは何なのでしょうな?」
王も一歩も退かずに、相変わらず何かを求めるようなニヤついた顔をしている。
チッ……。
アスタロトは周囲に聞こえないように舌打ちをすると口を開いた。
「王よ。われわれもタダで協力を要請している訳ではありません。馬車の中には東方人からせしめた生活用品を詰め込んできている。………これはビジネスと考えてもらいたい」
これを聞いた王は目が細くなり、ニタリと笑った。
「そうですか、ビジネスでいらしたとなれば話は別です………そしてビジネスである以上、お互いが対等の立場という事で間違いはありませんな?」
やはり食えない王だ……しかし、ここで引き下がるわけにもいかない。アスタロトは平然と返答する。
「対等の立場とは、具体的にどのような立場なのかはわかりませんが、少なくとも取引に関しては対等と考えて良いかと」
「なるほど……では取引の具体的な話を伺いましょう」
本来であればもう少しカマをかけたかった王だったが、話がこじれて戦争になっては意味が無いため、ここは納得しておいて話を先に進めるしか出来なかった。
アスタロトは馬車に詰め込んだ衣服や食器等の生活物資を提供する代わりに、2週間ほど宿を提供して欲しいと提案した。
これに対して、王は次の要求を出してきた。
1.ガゼ島では原則、宿以外の施設は立ち入りを禁止とする。
2.ガゼ島内の調査・捜索には協力を惜しまないが、最低二日前には王へ調査日時を報告し合意を得てから行う事
3.中立地帯であるガゼ島領内での一切の戦闘行為を禁止する
4.本契約の有効期限は二週間とし、必要であれば別途再契約とする
アスタロトはこれを受け入れたため契約は成立し、すぐに手配してもらった宿に移った。
「………」
宿については特に規定していなかったとはいえ、まさかこんな場所とは思ってもいなかった。
ガゼ地区の最北であろうこの場所は、ガゼ島の更に北にある小さな島で、大河の中にポツンと浮かぶ無人島に小さな監視小屋が建っていた。
「この小屋を自由に使え……ということでしょうか?」
さすがにボッシュも驚きを隠せない。
確かに山へ行くには北側の方が近いので便利なのだが、古びた石造りの小屋の周囲は雑草が生い茂っていた。
マールシェは木製の古びたドアを開けると、中は思ったよりは荒廃した感じはなかったが、やはり少し埃っぽい。
コスメールはすぐに室内の窓を全て開け放ち掃除を開始する。
小屋の中央には木製のテーブルが置かれ、台所も完備されていた。
個室は二つのみで、一つはアスタロトが使用する事になり、もう一つの部屋にはマールシェとコスメールが使用する事になったため、必然とボッシュはダイニングで寝ることになる。
コスメールはボッシュと同じ部屋を希望したが、即座にマールシェに却下された。
すると今度はアスタロトがボッシュを自分の部屋に誘ったが、ボッシュ、コスメール、マールシェの三人が全力で反対したため、結局現在の部屋割りに落ち着いたのだ。
「外で寝る事を考えれば、ここで十分」
ボッシュはそう言って真紅のフルプレートを床に放り出すと、アンダーウェア姿でテーブルの下に潜り込み、マントに包まって眠りにつくのだった。
───翌日の夕方。
アスタロト自らも飛行能力が高いワイバーンを駆って北側から、5色騎士団の3人は南側からシャフローネ山の調査を開始した。
ボッシュらは森の木々の間を縫うようにヒポグリフを操り、上空からでは発見する事が出来ないであろう、東方人らが残した僅かな痕跡をも逃すまいと注意を払っていた。
人からは独特の臭いが出ているらしく、ヒポグリフにはそれを嗅ぎ分ける能力があるため、かなり期待していたのが完全に空振りに終わった。
この方法はあまりにも効率が悪いため、改めてかなりの時間を費やす覚悟をする初日となった。
すでに完全に日は昇った頃、小屋に帰ってきた5色騎士団の3人は床にひざまずき、着席しているアスタロトへ初日の調査報告を行っていた。
「……そうですか、ご苦労さまでした」
「「はっ」」
アスタロトから労いの言葉を掛けてもらい恐縮する3人。
「……ところで私は明日、西部に回ろうと考えています。お前たちは引き続き南部をお願いします」
アスタロトのこの言葉に、ボッシュは首を捻って質問した。
「失礼ですが、アスタロト様。本日の北部の調査はどうでしたでしょうか?」
「もう完了しました」
「完了ですか!?」
ボッシュはつい、大きな声を出してしまい、すぐに頭を下げて謝った。
しかし、たった1日で完了したとは到底信じられなかった。
「もしよろしければ、どのような方法で調査を行ったのか、明日以降の参考にしたいと思いますので、お教えいただけませんか?」
マールシェが静かに質問すると、アスタロトは深く被ったフード越しにマールシェを見ながら答えた。
「私の方法は特別なのでお前たちの参考にはならないと思うが………まぁいいでしょう。私はお前たちのように低空飛行で森の中を探し回ったのではありません……」
「では、一体どうやって……」
ボッシュは、テーブルに両手を置き椅子に座るアスタロトを見上げながら次の言葉を待った。
「私は毒を自在に操れるのですよ?それを有効に使ったに過ぎません」
つまり、北側の森を何時間にも渡って猛毒で覆い、命あるものを根こそぎ死に至らしめたのだ。
「もちろん、猛毒を行使するにあたり、森に棲む生物にはメッセージで退避するよう警告はしています。少なくてもこれで魔族のものたちへの被害はほとんどなかったはずです。それに中立のものはあの周辺には存在しないので、メッセージを受けることが出来ない東方人たちだけが猛毒の餌食になったはずです」
何とも悪魔らしい大胆な方法だが、最低限魔族に与し種族たちには配慮できており、しかもアスタロトが本気を出した猛毒を浴びて即死しない生き物は存在しないはずなので、非常に効率的で確かな方法であった。
「さすがはアスタロト様。素晴らしい方法でございます」
ボッシュはそう言うと頭を下げる。残りの二人もボッシュに合わせて頭を下げた。
「とはいえ、この方法は風の影響を受けやすいのも事実。明日も今日と同じように行くとは限りません……」
アスタロトはそう言うと席を立つ。
「……では、明日も頼みますよ?」
「「はっ」」
アスタロトはボッシュらの返事を背中で聞きつつ自室へ戻って行った。
翌日の夕方───。
天候は大荒れで、昼頃から激しく降り続く雨の影響で、増水した川の水が小屋に迫っていた。
普段は時間の経過も忘れるくらいゆったりと流れている大河が、今では濁流が上流から押し寄せている。
横殴りの雨の中、雷鳴が轟き、至る所で閃光が走っていた。
「何とも壮観な眺めだなぁ」
「これが自然の力なのですね。ボッシュさま」
ボッシュとコスメールは強風の中、小屋の屋根の上に座り頬杖をつきながら、今にも小島を飲み込もうと荒れ狂う川を眺めていた。
「何をそんな所で呑気な事を言ってるのよ!?」
マールシェが下からボッシュらを見上げながら叫んだ。
「さっさと捜索に行く準備をしなさい!」
「え!?こんな荒れた天気なのに捜索続けるの!?」
コスメールがあからさまに嫌そうな顔をする。
「当たり前でしょう!?それが私たちの仕事なんだから!」
マールシェはそう言うと、ヒポグリフに跨って上空に飛び立った。
雨風に激しく打たれながら、マールシェは上昇を試みるが、強風に煽られてヒポグリフが錐揉み状態となりながら降下して行く。
マールシェは荒れ狂う大河に墜落する直前に何とか体制を立て直し、ヒポグリフは滑り込むように小島に着陸した。
「危なかったなー!マールシェ!」
「うるさい!!」
ボッシュの言葉を振り払い、ヒポグリフから飛び降りると、マールシェはそのまま小屋の中に入って行った。
そこにはアスタロトが、テーブルに大陸の地図を広げて何かを考えている姿があった。
「アスタロト様……あまりにも悪天候のため、ヒポグリフによる飛行が出来ない状況です」
マールシェがひざまずいて報告する。
「まぁ、そうでしょうね……私の方も毒霧が強風ですぐに散ってしまって、全く効果が上がらないでしょう。今日は大人しくしていた方が無難かもしれません」
「はっ」
アスタロトの言葉に頭を下げるマールシェ。
「それにしてもこの雨の量は異常ですね。今の時期、この辺一帯は乾季で、ほとんど雨は降らないはずなのです……」
アスタロトはそう言いながら考え込む。
漆黒のフードに隠され、その表情までは読み取る事は出来ないが、何かの可能性について思い当たる事があるように見える。
「マールシェ。この小島はあとどれくらいもつと思いますか?」
「川の水位は尚も上昇中です。このまま雨が降り続けば、おそらくあと数時間ほどで小屋も濁流に飲み込まれるでしょう」
「そうですか、では急ぎケット・シーの王に宿の変更を申し入れましょう。王宮へ向かう準備を」
「承知しました」
マールシェが返答したその時。
小屋のドアがバタンと大きな音を立てて開けられた。
「驚かせてしまい申し訳ございません。強風でドアが煽られまして……」
ズブ濡れの状態でボッシュとコスメールがドカドカと小屋に入って来た。
それを見てマールシェが二人に向かって話しかける。
「ボッシュか、丁度良い。今からケット・シーの王宮に向かう。準備をしろ」
「ちょっと待て。この強風では先ほどのお前のように墜落するのがオチだぞ?」
「おいボッシュ!いつ、誰が墜落したって!?」
マールシェがギロリとボッシュを睨みつける。
「いいからちょっとそこをどけ、マールシェ……」
ボッシュはそう言いながら立ち塞がるマールシェを左手で押しのけてアスタロトの前に進む。
「申し上げます……」
ボッシュはテーブルの手前まで歩くと片膝をつく。
「風はますます強くなり、ヒポグリフの飛行能力では我々を乗せて飛び立つことは不可能なほどです。しかし、このままではいずれこの場所は濁流に飲み込まれるでしょう……」
「少し行動が後手となり、進退が窮まったという所でしょうか?」
「残念ながらその通りにございます……」
「うむ……私のワイバーンであれば、お前たちを向こう岸まで運ぶことも出来るでしょうが……」
そう言いながらボッシュの後ろにいるマールシェとコスメールを見るアスタロト。
それに気付いてボッシュが進言する。
「私はアスタロト様のワイバーンに認められておりますので、問題なく騎乗することも可能でしょうが、後ろの二人は恐らく無理かと……」
「でしょうね。しかし、それはワイバーンの背中に騎乗する場合の話。あくまでも荷物として足で運ぶ分には大丈夫でしょう」
「………はい」
グエェェェッ!!!
嵐の中でも十分すぎるほどワイバーンの咆哮が耳を劈いてくる。
深緑の翼竜の背中ではアスタロトが手綱を握り、ボッシュはアスタロトの背後で腰に両手を回してしがみ付いている。
今回ばかりはワイバーンへの負担を少なくするため、いつも装備していた真紅のフルプレートではなく、大陸で一番ポピュラーなレザーアーマーを装備していた。
「前の時よりも随分大胆に腕を回してきますね?」
アスタロトはからかうようにボッシュに話しかけるが、実際、フルプレートの時と比べると、圧倒的にアスタロトのローブで隠された女性らしい体を感じられるのだが、ボッシュにしてみれば嵐の中でしがみつくのに必死であり、それどころではなかった。
一方、ワイバーンの2本の足に掴まれて運ばれているマールシェとコスメールも生きた心地はしなかった。
この嵐では、うっかりこの大きな鉤爪で握りつぶされかねないし、緩く持たれれば濁流に落下する危険がある。しかも、ワイバーンは毒を帯びているため、三人の体力は徐々に削られていくのだった。
だが、さすがは飛行型種族の頂点を極めるワイバーンだけあり、嵐の中を力強く羽ばたき、低空ながら比較的安定して岸に向かって進んでいる。
ボッシュは必死に目を開けて周囲の状況を確認しようとするが、夕方とはいえ荒れた天候のせいで辺りは暗く、夜目であっても横殴りで吹き付ける大雨によって、目を開けることすら困難な状況であった。
その時、アスタロトがケット・シーの王宮を指さしながら叫んだ。
「ボッシュ!あれを!」
アスタロトに言われてそちらに目を向けるが、雨が目に入って良く見えない。
手を額に翳して雨風を防ぎながら目を凝らす。
王宮の上空が───光っている───雷か?───いや……!
天候のせいで良く見えないが、間違いない!あれは、正七芒星!
「東方人の巫女が使う術です!逃げて下さい!」
ボッシュが叫ぶと同時に、ワイバーンは更に低空となり北西に針路を取る。
「東方人は夜目が利かぬはず。それにこの距離であれば、こちらがいかに大きなワイバーンであっても当てる事はできないでしょう」
そう言いながらも、アスタロトは王宮の上空にうっすらと浮かぶ七芒星から目を離さない。
「東方人らは王宮の中にいるのでしょうか?であれば千載一遇のチャンスです。このまま王宮へ攻め込みましょう!」
ボッシュがアスタロトに提案するが、アスタロトは静かにこれを拒否した。
「いいえ、ダメです。私はケット・シーの王と領内での戦闘行為は行わないという取り決めをしました。東方人らが『ガゼ』中立地帯にいる限り、これを攻撃することは出来ないのです」
「しかし、向こうは術を使っているではありませんか!?」
「ゲッシュの強制力は悪魔にしか使えません。ケット・シーは東方人を受け入れたという事になります」
「そ、そんな……」
ボッシュはこれ以上、言葉が出なかった。
王宮の上空で輝く七芒星は、まるでこちらの動きを観察しているかのように見えたのだった。




