朝の光
ある落ちぶれた華族の屋敷に、色とりどりの花が咲いていた。
苧環、海老根、桔梗、熊谷草、菖蒲など和の趣のある花から、
マーガレット、オルラヤ、三色すみれ、アネモネなど洋風の花まで、
広い敷地いちめんに、春の花が咲いていた。
外構には、山法師、山桜、乙女椿、たいさんぼく、
そしてジャカランタやジューンベリーやオリーヴ、
そして鉄扇や風車、藤の花や忍冬など、
蔓の花が木々に絡んで咲くその真下には、
石楠花や躑躅に梔子、薔薇や牡丹などの低木が、
春爛漫と言わんばかりに、色鮮やかに咲いている。
枯山水の通路には、レンガタイルの飛び石が敷かれており、、
睡蓮や蓮の池に鎮座する鹿威し、
そして苔むした池の周りに、いくつかの紫陽花。
庭園の様子は和洋折衷でありながら、
不思議にも、違和感なく調和していた。
この世の穢れを拒絶する、美の調和が支配する聖域。
聴こえてくるのは、
鳥の囀りや蛙の鳴き声、虫の音色、
そしてそれらの木霊だけ。
塗装の剥げた漆喰の壁に、ひび割れた瓦屋根の大きな屋敷。
それを喰らい尽くすかのように、
凌霄花や琉球朝顔、時計草が屋敷を覆う
朝。
縁側で、歳をとった男と女が、座っている。
「だけど、これから、僕は何をすれば良いのでしょうか。」
「印刷業は?お飽きになったの?」
「いいえ、そういうわけでは…。」
「でしたら、それを続けたらいいんじゃないでしょうか。」
「そうなんですがね…。ただ、少し考える時間が欲しいんです。
社長代理をたて、暫くゆっくりしていようと思います。」
「ええ、それは良い事ですわ。」
すると屋敷の塀の外で、小学生と思しき生徒が現れた。
「美咲ちゃん、おはよう!」
「おはよう、優実くん。」
「そうそう、昨日、美咲ちゃんの好きな菖蒲の花が、咲いたよ。」
「あら本当?じゃあ、今度お邪魔しても、よろしい?」
「もちろん!なんだったら、今日来てくれてもいいよ!」
そんな無垢な子供達を見て、思わず顔がほころぶ。
「このお屋敷を、あんなふうに子供達が通っていくなんて…。
『北条家の呪い』の噂話も、随分、薄まったようね。」
「ここ最近、この街でも、いろんな事が立て続けに起こっていますからね…。
やれ破産だ、やれ一家心中だ、やれ殺人だ、やれ汚職だ。」
「悲しみのない場所なんて、ないのね…。」
「ええ、そうなのでしょう…」
………
昼下がり。例の小学生たちが、通りすがった。
「ねえねえ美咲ちゃん、僕のおうちへこないの?菖蒲の花が咲いてるよ!」
「だから言ったでしょう?明日にするって。
今日はヴァイオリンのレッスンがあるの。」
「じゃ、じゃあさ、僕も君のお家で、ヴァイオリンを聴いてもいい?」
「だめよ。私、レッスンの最中は、誰にも邪魔されたくないの。」
「…美咲ちゃんは、僕の事が嫌いなの?」
「そんなこと言ってないわ。ただ独りで、集中したいだけ。」
「…じゃあ、僕の事嫌いじゃないの?」
「ああ、もうしつこいわね!ああそうよ、嫌いよ!
いつもいつもベタベタベタベタひっついてきて、自分一人じゃ何も出来ないの!?
あなたのそういうところ、治した方がいいわよ!あなたなんか泥棒草よ!」
「ひ、ひどいよぉ…!」
道のど真ん中に立ったまま、
号泣する少年を、
チラ、チラと、振り返りながら去っていく少女。
伝恵は、少年へと声を掛けた。
嗚咽をあげながら、少年は答えた。
「おやおや…。大丈夫、坊や?」
「…美咲ちゃんは、僕の事が、嫌いなんだ。だって嫌いって、言った…!」
「そんな事ないと思うよ?だって、明日になったら、
菖蒲のお花を見に来てくれるんでしょう?」
「けど、僕の事嫌いって言った…!
もう美咲ちゃんは、僕のお庭に来てくれないんだ…!」
「だけどあの女の子、走り去りながら、あなたの事を心配そうに、見てたわよ。
きっと彼女も、『言いすぎちゃったな』って思ってるんじゃないかな…。」
「ほ、ほんとう…?」
「ええ。だけど、彼女の思いも尊重してあげてね。
いつもだれかと一緒にいたい子もいれば、ひとりでいる方が好きな子もいるの。
それにあなただって、
パパやママが朝昼夜と、
お手洗いにまでずっと一緒についてきたら、嫌でしょう?」
「…嫌です。じゃあ僕は、それと同じ事を、美咲ちゃんにしちゃったの?」
「そうかもね。押しても駄目なら引いてみな、って言葉を聞いたことがない?
例えば、あなたの名前は…優実くんだっけ?何か、好きな事は無いの?」
「僕は…歌が好き。声楽を習ってるんだ。
いつか、美咲ちゃんとデュエットしたいな…」
「じゃあ、それを一生懸命やりなさい。レッスンの回数を増やすとか、
発声練習だけでも自分ひとりでやってみるとか…。
一人でも出来る事が、あるはずよ。
おばさんだったら、女の子とベッタリしてる男の子より、
一人を楽しめる男の子の方が、好きだな。」
「…そうしたら、美咲ちゃんと、もっと仲良くなれるかな…?」
「なれますとも。だから、好きな女の子だからといってへコへコせずに、
堂々としていなさい。もっと、
『僕はすごいんだ!素晴らしいんだ!』と自信を持ちなさい。
「…わかりました、ありがとう…。それじゃあ奥さん、僕はこの辺で失礼します。
アドバイス、参考になりました。ありがとうございます!」
満面の笑みで、少年は走り去っていった。
「最近の子供は、進んでいるなァ…。僕の頃とは大違いだ。」
「ふふふ。恋に年齢は関係ないですわ。」
「時代は変わっていくものですね…。」




