愛しき我が父
薬剤散布が済み、
むせかえるほど薔薇の香りが漂う、初夏の夕暮れ時。
疲れ果てた美純は、薔薇を眺めていた。
金に物言わせてつくったナンセンスな庭であっても、
農薬塗れの汚れた庭であっても、
そこに咲く花の美しさそのものが変わるわけではないのだと、
しみじみと感じていた。
この屋敷には家畜しかいない。
彼らは金を使っているのではない、金に上手く使われているのだ。
その事に気づかず、
ただ金を消費して得られるものを、意味も考えずに貪っている。
それが家畜でなくてなんだというのだ。
奴らは金を喰う豚だ。
そしてこの屋敷は『豪華な豚小屋』だ。
しかし、
この『豪華な豚小屋』の中で、
父だけは、
まっとうな人間に育ったのだということを思うと、
改めて父の事を、誇らしく思うのであった。
それでいて、
人間として産まれたのに、
豚小屋で生活せざるを得なかった、
かつての父の境遇を思うと、大変居たたまれないな気持ちになった。
「おや、美純。やっぱり此処にいたか。」
無断で屋敷から飛び出し事を咎めるでもなく、
寛は優しく、美純に声をかけた。
「…ええ、お父様。
このお庭では、最新の品種の薔薇が咲いているの。勉強になるわ。」
「そうかそうか。
僕は正直、この庭は厭味ったらしくて好きじゃないけどね。
だけど花は、必死に生きて花を咲かせているだけだからね。
きれいだな、と思うよ。」
「ええ、わたしもそう思うわ。そう思っていたところなの。」
「うんうん。じゃあ、そろそろ家に帰ろうか。
伝恵もそろそろ来るはずだから、三人で一緒に帰ろう。」
「はい。」
「…お疲れ様、美純。」
父の優しい、
しかし愁いを帯びた労いの言葉。
その瞬間、
堰が外れたように、
美純は激しく泣いた。
彼女があの屋敷でどのような言葉を聞き、
どのような思いを抱いたのか、
薔薇を眺める我が娘の顔を見て、
寛はすべてを察したのだ。
「お父さまはケチじゃないわ、貧乏くさくなんかないわ!
あの人達には、お父さまの優しさや愛が、わからないだけよ!
お父様は…お父様は、魂の大富豪だわ!
私はそんなお父様を愛しているもの!」
嗚咽をあげ、泣きじゃくる美純の頭を、
寛は優しく撫でて、抱きしめた。
「美純にそう言ってもらえて、父さんもとても嬉しいよ。
僕も、美純のことが大好きだよ、愛しているよ。
君はとても賢くて繊細だから、この汚くて醜い世界では、生き辛いかもしれない。
だけどね、安心しておくれ。
君の賢さや繊細さを守ってくれる、
優しい男の人が、恋人が、旦那さんが、
君に見つかるまでは、
僕や母さんが、君を守ってあげるからね。
だからね、泣かないでおくれ。
これからも、
一緒に絵を描こう、音楽を奏でよう、お庭仕事を一緒にしよう。
そして時々は母さんの実家に帰って、みんなで楽しく過ごそう。
君の魂は、誰よりも美しい。その美しさを、どうかずっと忘れないで…。」
しばしのあいだ、父の腕の中で泣いていた美純。
その涙は悔しさから悲しさへ、
悲しさから安らぎへと変わり、
ひとしきり泣いた後は、
父を心配させまいと、
すっかり立ち直り元気になった。
一時は、
世界のすべてが恐ろしくなって、
果たしてこれから、
この世界で生きていけるのか、
生きていけないのではないか等と思い煩悶し、
居ても立っても居られないほどだったが、
父の言葉と抱擁が、すべてを解決した。
もう何も、
憎み、怒り、恐れ、怯える必要はない。
優しい恋人が現われるまで、父が守ってくれる。
そう思うと、
自分のすべてが保証された気がして、
すべてが赦された気すらして、
なんであれば、
将来の恋人はどんな顔をしているのだろう?
と、想像してみるも、
まだ幼い彼女にそんな事は露にも想像できるはずもなく、
それがもどかしくて美純は笑った
そしてそんな心境の中、
おぼつかない下駄の小走りで、伝恵がふたりのもとへやってきた。
「遅れてごめんなさいね。
親戚の人達が、あれもこれもと下さるから、ついつい。
一応はお断りしたのだけど、それでも、ね…。
さて、帰りましょうか。」
黄昏の家路につく、父、母、そして娘。
家路の最中、すれ違う他の家族達。
こんばんはと言えば、
こんばんはと、温かな挨拶がかえってくる。
家族の数だけ、黄昏のシルエットができる。
夜の家路につく、寛、伝恵、そして美純。
そのシルエットは、
華族や出自に関係なく、
「家族」の姿そのものであった。




