表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世忌花娘  作者: 仲渡 温紀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/58

傷だらけの聖母

「僕が妻と、慈与と出会ったのは、第二次大戦後の、混乱の最中です。

彼女は広島で産まれ育ち、

そして『被爆』しました。

僕も広島の生まれですが、爆心地からは離れていたので、被爆はしませんでした。

彼女は当時、まだ幼かったにも関わらず、あの光景をくっきりと覚えていました。

弟や妹が瓦礫に埋もれて死んでいるのを、

熱風を受けた母が皮膚を垂らしているのを、

父の全身に硝子片が刺さって、ジャリジャリと音を立てているのを、

そして、母の全身が紫色に変わり死んでいくのを、

父の全身が壊疽を起こし膿だらけになり死んでいく光景を、覚えていました。

戦争孤児となった慈与は、親類をたらい回しにされたそうです。

『ピカの毒が染る』と白眼視され、犬小屋のような場所を与えられ、

虐められ、ついに耐えきれなくなって、戦争孤児が集まっている駅場へと逃げ、

そこで雨風を凌ぎながら、物乞いをし、なんとか命を繋いでいました。

彼女はこう言っていました。『貧しい身なりの人ほど、乞食に厳しかった』と。

きっとそこでも、彼女は辛い思いをしながら生きていたに違いありません。

その頃僕は、様々な場所で物資を確保し、

それを『闇市』で売りさばいていました。

僕は被爆こそしませんでしたが、

両親は広島市に用事があって出かけていた為、爆死しました。

死体はおろか、骨すら見つかりませんでした。

兄弟も、頼れる親類もいなかった僕もまた、彼女と同じ戦争孤児でした。

しかし彼女と違って僕は、年齢もいくつか大きかったし、

父が商人だったのと、家業の手伝いをしていたため、商売の才があったのです。

僕は次々と仲間をつくり、

金になる情報を手に入れ、

警務官の目を逃れながら物資を調達し、

それを売りさばき、

食料へと交換することで、生き延びていました。

ひたすらに汗をかき、忙しく、焦燥感こそあったものの、

ひもじい思いはした事がありません。

やがて僕が、

小規模な闇市全般を取り仕切る程になった頃、

慈与が僕のもとへ現れたのです。

僕は度々、物乞いしか処世術を知らない、哀れな少年少女へ寄付をしたり、

食料を分け与えたりしていました。

生きる為とは言え、悪事をして金儲けをしている自覚はあったので、

せめてそのお金で、誰かを助けようと思ったのです。

そして慈与が、僕に向かって『食べ物を下さい』と物乞いしたのです。

最初は「かわいい子だな」くらいにしか思っていなかったのですが、

彼女にお金や食料を渡し、軽い世間話を重ねていくたび、

彼女の態度には、物乞いの少年少女に共通する、

卑屈なほどの謙虚さや、

他人の機嫌を伺うような様子がまったく無いことに気が付いたんです。

原爆で家族を失い、

その断末魔まで目の当たりにし、

親戚をたらい回しにされ、

世間から虐められ、

物乞いの境遇に堕ちる。

こんなことが立て続けに起これば、誰だって卑屈になるか、荒みます。

しかし彼女は、悲しい目をして泣くことはあれど、

決して自分を卑下したり、他人の顔色を伺うことはなかった。

食料や施しを受け取り深々とお礼をした後は、

明るく物怖じしない態度で、僕と世間話をする。

家族を原爆で失ったことも、被爆したことも、

親戚からたらい回しにされたことも、努めて明るく話していました。

そんな彼女の前向きさに心惹かれ、

次第に僕の方から慈与へと話しかけるようになり、

男女として、惹かれあっている実感を…

それをお互い、感じ始めていました。

『私はこれだけ悲しい思いをしたのだから、

これからは楽しい思い出が沢山待っている』と、

いつも曇りのない笑顔で、そう言っていました。

…ところがある日、

そんな彼女の様子が一変してしまうほど、怖ろしい出来事が起きたのです。

人が人にやる事とは思えない、醜く、此の世でも最も忌まわしい行いです。

彼女はいつものように、物乞いをしていました。

そして彼女の前にアメリカ人、

GHQの進駐軍が現れ、

ニヤニヤ顔で彼女の事を見たそうです。

恐怖を感じた慈与は、

急いで人目のある場所へと逃げようとしました。

そして進駐軍の男たちは、

逃げる彼女を数人がかりで追い回し、

抵抗する彼女へ暴力をふるい、

彼女を林へと攫い…凌辱したのです。

この出来事は、酷く、深く、彼女の心に深い傷をつけました。

今までの出来事だって、彼女は笑いながら過去の事として話していたが、

その心の中は、他者から踏みにじられる事への絶望が、

ヘドロのように渦巻いていたのでしょう。

明るい笑顔の仮面の下に、彼女は激しい悲しみの渦潮を、隠していたのです。

彼女は、海で、入水自殺しようとしました。

偶然、海を通りすがり、その姿を目にした僕は、慌てて彼女を制止しました。

足に重石をつけ、海に沈もうとしていた慈与。

それを必死に抱きとめる僕と、振りほどこうとする慈与。

やがて彼女の拳が僕の顎にあたり、僕は海の中で気絶してしまったんです。

海の中に沈んでいく僕を、慈与は、重石のついたその脚で、

僕を浜まで運び、僕の目が覚めるまで、傍で見守っていました。

死を望む程の絶望にいながら、僕を死なせまいと、渾身の力で、

僕の事を助けてくれたのです。

僕が目覚めたとき、慈与は、心底嬉しそうな顔をしていました。

僕は彼女がいじらしくて、たまりませんでした。

『私のせいで死んでしまったかと思った、でも、生きていて良かった』と、

彼女は安堵し、涙しながら喜んでくれました。

だけどその顔は、進駐軍から受けた暴力によって、酷く腫れていました。

とても痛々しく、思わず抱きしめたくなりましたが、

彼女が男から暴力を振るわれた事を考えると、それは僕には出来なかった。

彼女が涙を流しながら、己の受けた凌辱がどんなだったかを語るのを見て、

僕は、彼女のために何も出来ない自分を、これ以上となく腹立たしく思ったものです。」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ