聖母の神託
慈与は優しく、しかし毅然とした態度で、こう言った。
「優ちゃん。この地球で生きているのは、私達人間だけではないのよ。
みんなこの星で、頑張って生きているの。
私達人間は、この地球の中では、あまりにも弱い存在なの。
だから、雨や風に脅かされない大きなお屋敷に住んで、温かい布団で眠るの。
確かにここは私達の御屋敷だけど、虫や草は、私達よりずっと強いの。
そしてお屋敷を一歩出れば、そこはもう、人間の世界じゃない。
草や木や、虫や鳥の世界なの。
だから私達は、彼らの機嫌を取りながら、生きていかなければならないのよ。
私達人間は、この地球の中で、あまりにも多くのものを、とりすぎてしまった。
そして今もなお、とりすぎている。
だからね、優ちゃん。私達は、
山や、森や、川や、海や、空や、
そしてこの地球に住んでいる、たくさんの生き物に対して、
優しさをもって、譲りながら生きていくしかないのよ。
人間の生きる場所と、
自然の生きる場所を、
きちんと分けて、生きていかなくてはならないのよ。
これが、どういうことだかわかる?」
幼い優一にはわかるはずもなかった。優一が首を横に振ると、
「『誰かを尊敬する』、ということなの。
これは、人間と自然にかぎった話ではないわ。
人と人でも、同じ事なの。
この世の中には、誰一人として同じ人間はいないわ。
母さんと優ちゃんの見た目が違うように、
人の数だけ、心の中に、みんな違う世界を持っているの。
だから私達は、その世界の数々を馬鹿にして蔑ろにしたり、
踏み躙って苦しみを与えたり、
好きだからとか、愛しているからと言って土足で踏み入って汚したり…。
絶対に、そんな事をして生きてはいけないの。
この世界に生きている人々の数だけ、世界が存在するの。
そして私達人間は、その世界の数々を認めあって、
この世界の皆が、その人らしく生きられるようにしなくてはならないのよ。
きっと今母さんが言った事が、いつか優ちゃんにもわかるはずだわ。」
慈与は、
眉を下げ、
目を見開き、
半開きの口で、
涙を流しながら、
優一の事を見ながら、そう語った。
何が、母の過去にあったのだろうか。
母は時々、雨の日などは特に、
遠い目で、
心此処にあらずというように、
物思いに耽っている事があった。
明朗快活に見える母の中にあるであろう、
悲しさや不安や、孤独。
優一はそれが何故なのか、知りたかった。
だけど、
それを知ったら何かが変わって、
取返しのつかない事になるのではないかという気がして、聞けなかった。
しかし、
さきほどの母の話を聞いて、
『知りたい』という欲求がムクムクと頭の中に広がって、
『土足で踏み入ってはいけない』と言われたにも関わらず、
『母の事をもっと知りたい』と、幼い優一は、好奇心に負けてしまった。
「母さん。僕は、昔の母さんの事を、知らない。
母さんは、昔、どうしていたの?母さんの昔には、なにがあったの?」
慈与は、
困ったような、
きまりの悪そうな笑みを浮かべて、こう答えた。
「母さんはね、昔、蝶々だったの。赤ちゃんの頃は芋虫で、
優ちゃんと同じぐらいの頃は蛹で、お父さんと出会ったときは蝶々で、
そして、今は人間なの!」
大事なことを隠すために、
大袈裟な嘘をついているのだな、と、
優一は感じた。
しかし、
これ以上無益な追及をして、
母を傷つけるのは不本意であったし、
なによりも、
目の前にいる美しい母と蝶々が、
あまりにも似た雰囲気であるため、
その不思議な説得力に優一は、
幼心にも感心したのであった。
そしてニコニコとしながら、
手を上下にふり、
「ほうら、上手でしょう?」
と、
蝶々の真似をする慈与を見て、
優一は心の底から笑った。
「ははは、母さん、蝶々は、そんなにしなやかじゃないよ。
母さんのそれは、白鳥だよ!」
優一のジョークに気を良くした慈与は、
白鳥の真似をしながら、
庭を軽々と駆けていった。




