道
優一が幼かったころ、
それも、物心がついた頃。
優一はいつも、
母「西郷 慈与」と一緒にいた。
父は、
第二次世界大戦後の闇市から成り上がり、
印刷会社を設立し、
ついには、
日本でも随一の会社へとのしあげ、
今もなお、仕事に明け暮れている。
それでも父は、
家族との時間を設け、
十九時には帰宅し、一家団欒に参加していた。
父と母と揃って夕食を共にし、
カラーテレビを一緒に見ながら話しあい笑いあい、
世間話をするのは、とても楽しかった。
誕生日や年中行事の日などは、
母だけではなく父もずっと一緒で、
もはや優一は、年中行事や誕生日という行事よりも、
三人で一緒に過ごす時間を、
いつもいつも、心待ちにしていた。
そのあいだ、
優一の遊び相手になってくれたのは、
そして、
多くの時間を共にしたのは、慈与だった。
慈与は、大変美しい女性であった。
幼き頃の事とは言え、それだけは克明に覚えている。
美しい思い出の多さ故に、
また、
身内贔屓の欲目もあるだろうが、
艶のある黒髪は、
腰のあたりまで伸び、
椿油と柘植の櫛でしっかりと手入れされていた。
線が細く柔らかな輪郭に、
筋の通った小さな鼻と、
小さく上品な唇。
幽玄すら感じる真っ白な肌。
そしてその瞳は、
真ん丸としていて親しみやすく、
ぼんやりとした黒目がちの瞳で、
いつも、どこか遠い所を見ているような…。
そんな顔つきであった。
美しく、そして浮世離れしている。
服も質素かつ上品な衣服を好み、
宝飾品は、
社長夫人として旦那に恥をかかせないよう、
必要最低限だけを所持していた。
父が招かれた、あるいは父が主催のパーティーでは、
どこの夫人も高価な服を身にまとい、
持ち物から宝飾品まで豪奢極まる中、
母だけが質素な身なりをしていたので、
ただでさえぼんやりとして浮世離れしている雰囲気が、
そういう場面では、より一層引き立っていた。
そんな母に、
「なぜ母さんは、ほかの女のひとのように、
豪華なおべべや宝石を身につけないの?」
と質問すると、母は優しく諭すように、
「だって、豪華なおべべだっていずれは破けるし、
宝石だっていずれはひびが入って、割れるだけじゃない。
それだったら母さんは、
ずっと破けない、ずっと割れない、そんな美しいものさえあれば、
それでいいと思うの。
そういう美しさこそ、母さんは『本物だなあ』と、思うのよ。
きっと優ちゃんも、わかってくれると思うわ。」
慈与は、
ベルカント唱法、
つまり、クラシック声楽の歌を好んで歌い、
バレエダンスや日本舞踊をするのが趣味で、
それだけにはお金も努力も惜しまなかった。
母の声は重厚なメゾ・ソプラノで、
普段の細い声からは想像もつかぬほどであったが、
しかしその、
倍音に富んだ豊かな美声は、
母の溢れ出る母性を象徴しているようで、
優一はとても大好きだった。
そして日本舞踊は完璧にこなす母であったが、
バレエダンスのうち、
足腰に大きな負担をかける動作だけは、
決してやろうとはしなかった。
「だって、もし足やお腰を悪くしてしまったら、
優ちゃんを抱っこできないもの。」
と母は言ったが、
おそらく、
今になって思えば、
彼女は、『いずれ破けて割れる』ものに、
『本物』を見出せなかったのだ。
刹那的な美しさではなく、永続する美しさ。
それを、母は求めたのだ。
当然、これは今になってこそ思う事ではあるが、
幼き優一の目にも、
母のダンスや舞い、
そして歌声には、『本物がある』と感動し、
またそれ以上に、
母との時間を多く過ごしたいと強く願い、母とともに訓練を受けた。
芸事の最中は、
母は決して甘やかしやおべっかやお世辞を言わず、
非常に凛としていたが、
『同門の士』として、
あるいは『師』として、
彼に手取り足取り、
それらを真剣に、わかりやすいように教えた。
普段のにこやかな様子とは違って、
真面目で真剣な彼女の様子は、
幼い優一には『怖いな』と思うところもあったが、
それ以上に、
母が熱心に指導してくれているのだという事が、
優一にはとても嬉しく感じられ、
なにはともあれ、
その日から優一は、
母と共にクラシック音楽を歌い、
バレエダンスを踊り、
日本舞踊をすることになった。
「ねえ、母さん。
母さんがボクに芸事を教えてくれるとき、ぼく、ちょっと怖い。」
「そうね、そうかもしれない。
だけどね、優ちゃん。それはね、私が厳しいわけではないの。
声楽も、バレエダンスも、日本舞踊も、すべて、ひとつの事で繋がっているの。
それは、『道』よ。その道を極めようと思ったら、
ただ誰かに優しくされたり、誰かに優しくするだけでは、ダメなの。
例え厳しい事でも受け止めて、時には誰かに、はっきりと言わなければならない、
そんな事もあるの。これはね、私の厳しさではないの。
『道』の厳しさなの。そして『道』とは、『魂』のことよ。
私達は、魂の修行をしているの。きっと優ちゃんにも、いつかわかる日が来るわ。」
「むずかしいことはわからないけどでも、
優しい母さんだけじゃなくて、真剣な母さんの事も、好きだよ。」
それを聞いた母は、
「なんて優しい子なの!」と感極まり、優一を強く抱きしめた。
背骨がミシミシしそうなほど、強い抱擁だった。
優一は、
母のいう『道』や『魂』というものが、
いったいどういうものなのか知りたくて、
今まで以上に熱意をもって、芸事に邁進した。
バレエも舞踊も、
そして声楽も、
メキメキと上達していった。




