魔女の感傷
ある落ちぶれた華族の屋敷に、色とりどりの花が咲いていた。
苧環、海老根、桔梗、熊谷草、菖蒲など和の趣のある花から、
マーガレット、オルラヤ、三色すみれ、アネモネなど洋風の花まで、
広い敷地いちめんに、春の花が咲いていた。
外構には、山法師、山桜、乙女椿、たいさんぼく、
そしてジャカランタやジューンベリーやオリーヴ、
そして鉄扇や風車、藤の花や忍冬など、
蔓の花が木々に絡んで咲くその真下には、
石楠花や躑躅に梔子、薔薇や牡丹などの低木が、
春爛漫と言わんばかりに、色鮮やかに咲いている。
枯山水の通路には、レンガタイルの飛び石が敷かれており、、
睡蓮や蓮の池に鎮座する鹿威し、
そして苔むした池の周りに、いくつかの紫陽花。
庭園の様子は和洋折衷でありながら、
不思議にも、違和感なく調和していた。
この世の穢れを拒絶する、美の調和が支配する聖域。
聴こえてくるのは、
鳥の囀りや蛙の鳴き声、虫の音色、
そしてそれらの木霊だけ。
塗装の剥げた漆喰の壁に、ひび割れた瓦屋根の大きな屋敷。
それを喰らい尽くすかのように、
凌霄花や琉球朝顔、時計草が屋敷を覆う。
その屋敷の縁側に、女は立っていた。
「花は、きれいね。」
美しいメゾ・ソプラノの声が、庭園へと木霊する。
それは花の美しさを讃えているようで、
当て擦りのような含みがあった。
だれに言うでもなく、ただ薄ぼんやりと、漠然と。
女の名は、
「北条 美純。」
艶のある黒髪は、腰のあたりまで伸び、
椿油と柘植の櫛で、しっかりと手入れされていた。
線が細く柔らかな輪郭に、
筋の通った小さな鼻と、小さく上品な唇。
幽玄すら感じる、真っ白な肌。
それらだけを見れば、
落ちぶれた華族の末裔とはいえ、
血族に相応しい気品を備えているようだが、
細く鋭角な眉に、
くっきりと刻まれた眉間の皺、
そしてねめつける様な鋭い目元には、
涙袋がはっきりと浮かんでおり、
美しい花々を前にしても、
敵と対峙しているような、
極めて強情で厳格で傲慢な顔つきで、
大変な美人であるにも関わらず、
愛の告白はおろか、恋文さえ届かないほどなのである。
「花はきれいね…」
そう心から呟く。
優しく甘美で、
しかし憂いを含んだその声は、
庭園に木霊し、
鮮やかな風景を、アンニュイに染めあげた。
美純は、自身の過去について思いを馳せていた。
幸せだった、あの日々。
父、「北条 寛」が存命で、
豪華で賑やかな生活を送っていた頃。
純粋無垢で、
天真爛漫でいることが許されていた、あの頃、あの日々。
華美な髪飾りやアクセサリー、着物やドレスを拒み、
上品で質素な身なりを好んだ美純。
フランス人形やドールハウス等には目もくれず、
絵画や音楽などの文化的趣味を好んだ美純。
そんな彼女を、
寛は、
「女の子らしくない」とか「可愛げがない」とか謗ることなく、
むしろ、
普通の少女とは違う、独特な彼女の感性を、
大変面白がり、愛おしんでくれた。
美純が「絵が好き」と言うと、
寛は我が娘のために、有名な画家の絵を買おうといきこんだが、
しかし美純は、
「ちがうのよ、お父さま。
私は、自分の手で絵を描きたいの。
だからどうせ買っていただけるなら、わたし、画集と画材が欲しいわ。」と、
そう言った。
美純が「音楽が好き」と言うと、
寛は、蓄音機やレコードを買い与えるだけではなく、
娘をミラノ・スカラ座や、
ウィーンフィルハーモニー楽団のコンサートに連れて行ったが、
しかし美純は、
「お父さま、すてきな演奏を聴かせてくれ、ありがとう。
だけどね、もういいの。
蓄音機とレコードさえあれば、
本物の演奏がなにか知るには、充分だわ。
お父さま。
美純はね、自分の声や手で、音楽をつくりたいの。
だから、楽譜と楽器が欲しいの。
そして楽器はね、
音が出て、調律さえ整っていればそれでいいの。
だってね、お父さま。
素晴らしい音楽家なら、
楽器が安くても、
良い演奏ができるものだと思わない?
私、そう思うわ!きっとそうよ、そうに違いないわ!」
と、そう言った。
そして美純が「花が好き」と言うと、
寛は、造園会社や育苗商に連絡して、
外構から苗から何から何まで注文しようとしたが、
しかし美純は、
「お父さま、
私は、自分の感性で庭をデザインして、
自分の手でお花や木を育てたいの。
だから、
苗や材料や、道具だけを買ってほしいの。
とうぜん、できない事は誰かに任せるしかないとは思うのだけど…。
それでも、
私にできることは、
私にまかせてくださらないかしら。」と、そう言った。
寛はそれらの言葉を聞くたびに面食らったが、
我が娘の、自主性に満ちた趣味や感性を、
心から喜んでくれた。
寛は、
年中行事や地域の祭り、それから、家の調度品や日々の食事こそ、
豪華豪勢にお金をかけ贅沢をしたが、
美純の趣味に関しては、
金であれこれ介入しようとはしなかった。
むしろ娘と共に、
絵筆をとってキャンバスに画を描き、
時々自分の顔に落書きしては美純を笑わせ、
娘が楽器を懸命に弾いている傍らで、
楽譜を目で追ったりして過ごし、
娘が休憩しているときなどには、
チャルメラや石焼き芋の軽快な音を鳴らして、一緒に笑いあった。
母「北条 伝恵」は、
人は良いものの大変おっとりとした性質で、
寛ほどは積極的ではなかったが、
娘と旦那が活き活きと、
絵を描いたり演奏をしたり、
草抜きや土いじり、水やりしているのを楽しく眺めていたし、
時折は彼女自身も参加した。
平和で幸せな家庭そのものだった、そう思っていた。
美純は、
寛の事も伝恵の事も、
心から愛していた。




