復讐の末に
終わってみれば、
何もかもが呆気なく、
そしてどうでもいいものだ。
父方の親戚が、皆一様に無理心中して全員死んだ。
美純や伝恵を不当に尋問した警官が、破傷風で死んだ。
それらの事について、もはやなにも思う事はなかった。
それどころか、
父との思い出を振り返ってみても、
どこか、
架空の物語を読んでいる時のような感慨しかわかないし、
母が留置所から解放され、
感極まったのか美純を抱きしめたときでさえ、
母の匂いも着物の感触も、
柔らかいとか、
温かいとか、
嬉しいとか、
そういったものを感じる事すらなく、
ただただ、生理的な皮膚刺激としてか感じられなかった始末。
「いいからさっさと離れてくれ」としか思えなかった。
ある日、母が、嗚咽をあげ咽び泣いている事があった。
「煩いから黙ってくれ」としか思えなかった。
何故そうなってしまったのか。
「魂の不感症」とすら表現できる、自身の心。
しかし、
自分が「魂の不感症」であるということでさえ、
今の美純には、どうでもよい事だった。
『あの豚どもがm自害だか心中だか病死だかしたとして、
此の世の醜悪がすべて根絶しにされるわけでもなし。
父はお人好し故に殺された愚か者で、
母もまた、お人好し故に謀られた愚か者。』
としか、思えなかった。
あれだけ怒りに燃え、
恨みに燃え、
復讐に燃え、残ったのは、「虚無」だけ。
敵を失った今、美純の生命力は尽きてしまったのだ。
過去の記憶を示すものがあるとしたら、
険しい目元だけ。
この険しい瞳だけが、
まるで聖痕の如く、
彼女の過去を物語っている。
もはや美純は、
画集にも画材にも目もくれず、
読譜や演奏はおろか、蓄音機すら鳴らさなくなった。
そして色とりどりの木々や花々にさえ、
堆肥はおろか、水すらやらなかった。
それでも降雨のみを頼りに、
生きて栄える事、ただそれだけの為に生き、
他者の意志とは無関係に梢を出し、
枝を伸ばす木々に、花芽を出し蕾を出す、花々。
美純は、
何故そうしているのかわからなかったが、
四六時中ずっと、
縁側に立ち、庭の花々を眺めていた。
時折きこえる鳥の囀りや、
虫や蛙の鳴き声に、耳を澄ませていた。
日常生活を営むのに必要な作業をする以外は、ずっとそうしていた。
そして伝恵は、
ずっとそうしている美純を心配に思い、
声をかけ、労い、
明るい世間話など、美純と親子の交流を試みるも、
返ってくるのは、おざなりで突き放すような相槌だけ。
「あれだけ凄惨な思いをしたのだから、
こうなるのは仕方のない事。」
そう思って伝恵はめげず
買い物に行こうと誘い、
御馳走を振るまうも、
娘が食べる量と言えば、
生きるのに最低限必要なぶんだけで、
砂でも噛んでいるような顔しかしない。
「一緒に演奏をしてくれない?それが駄目なら一緒に絵を描いてくれない?」
と提案してみるも、
「ごめんなさい、遠慮しておきます。」と、
にべもない返事が却ってくるだけ。
忌まわしい記憶の根付く場所に、
いつまでも住み続けているからこうなっているのだと、
そう思って、
「母さんの田舎に引っ越しましょう。そこで一緒に暮らしましょうよ。」
と提案してみるも、
「どこに行ったって、しょせんおなじよ。」
と、冷笑的で、突き放したような答えが却ってくるのみ。
衣替えの季節、
着物が良いかドレスが良いかを尋ねても、
「浴衣で良いわ。どうせ買い物をする以外に、外に出る事なんてないんだから。」
と、鬱陶しそうに返事をされたときなどは、
さすがに頭にきたので、
あてつけるように白い浴衣に白い帯を買って手渡したが、
彼女は無関心にそれを受け取り、
文句ひとつ言わずに着用した。
『彼女なりの報復だろうか?』
と一瞬思ったが、
さすがに申し訳ない事をしたと思い、
「ごめんなさい、いやな事をしてしまって…。
美純に似合う新しい着物、買ってくるからね。」
と言うと、
「何故謝るの?
浴衣を買えと言ったのは私だし、お母様はその通りにしただけでしょう。」
そこには何の厭味も皮肉も含まれておらず、
それが却って、伝恵の罪悪感を強めた。
「何故って…その浴衣、白装束みたいで、さすがに縁起が悪いわ…。」
ばつが悪そうな、
伝恵の怖じ怖じとした物言いにも、
「だけど、私は過ごしやすいわ。これは浴衣であって死に装束ではないし、
白だから縁起が悪いというのは他人の感性でしかないし、
それに、
これだけ庭が鮮やかならば、白は邪魔をしない色だし、ちょうどいいわ。
せっかくだからお願いするけど、これからも白い浴衣を買ってちょうだい。」
と、
淀みのない論理を展開したうえで、母の買い物を肯定する始末。
伝恵は呆気に取られ、それ以上何も言えなかった。
しかし娘の望んだ事とはいえ、
死人が着るようなものを買い与え続けるのは、
母としては忍びなく、
せめて、
白に近い水色や藤色などのもの、
刺繡や、薄っすらと模様のついたもの等を買い与えた。
そして、
夫、それからその親類から受け継いだ遺産が沢山あるというのに、
ドレスや着物ではなく、
浴衣ばかりを買い与えるのもなんだか薄情な気がして、
美しい簪と、
指輪と、
ネックレスを、
プレゼントするつもりで買ったことがあった。
『悦んでくれなくとも、受け取ってくれさえすれば、それでいい…』
そう思って、
「美純。この箱を開けてみて。あなたに、受け取って欲しいの。」
そういって、伝恵はにこやかに手渡した。
しかし美純は、
怪訝そうな顔をしながら、
おざなりに箱を開けた後、
その中の煌びやかな宝飾品を目にした途端、
目をひんむき、
眉を吊り上げ、
顔に青筋を立てて、
簪を真っ二つに折り宝玉をむしり、
ネックレスのチェーンを千切りストーンを引きはがし、
それらを屋敷の床に投げ捨てた。
指輪がゴロンとぶつりかり、畳が傷む。
そして美純は伝恵に向かって、
「よくもこんな、けがらわしいものを!馬鹿にしているの?馬鹿にしているの!?」
と、人が変わったように、甲高い声でヒステリックに怒鳴った。
伝恵は悲しみのあまりに言葉を失い、
美純の瞳を見つめ、
涙を流した。
すると今度は美純の方が、
慌てた顔をして、
口をパクパクさせながら、
見るからに動揺し、
さっきの怒号や、
普段の険しい目元とは打って変わって、
眉を下げ、
真ん丸な瞳で母の顔を見つめ、
涙を流し始めた。
しかしそれも束の間、
取り直すような、あるいは取り繕うように、
いつもの険しい瞳に戻り、
伝恵に向かってこう言った。
「お母様の好意を無下にしたことなら謝ります。
だけど美純は、そのような奢侈を尽くすような贅沢には吐き気がしますの。
この屋敷に住むこと以外は、食事もその他の事も必要最低限で構いません。
生きることに差し障りがないのならそれで結構です。」
震えた声で、まくしたてるようにそう言った。
そしてさすがに居心地が悪いと感じたのか、
床にぶちまけた宝飾品を拾い上げ、
箱の中へとしまい、
テーブルの上に置いた後、
音もなく寝室へと去っていった。
『私にできることは、もう、ないのだ。』
そう悟った伝恵は、
しばし縁側の床に突っ伏して、泣いた。
それ以来、
美純と伝恵の仲は、
前にも増して、ぎこちなくなった。




