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聖女に愛された侯爵令嬢は愛を貫く決意をする  作者: 樋口 涼
邪神の口付け

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70/100

5

セピアが足を踏み入れた場所は、先程のオンブル伯爵の部屋とは違い、暗く湿気でじっとりとしていた。

プリシカ王国では見た事の無い灯りが、ぽつぽつと等間隔に壁に掲げられ、辛うじて足元を照らしている。


炎の灯りが揺れる影を作るのに対し、この灯りは揺れない影を作る。

通路にタイルの溝に沿って黒い影が落ち、格子の上を歩いている様な錯覚に陥っていた。


(私は…ちゃんと歩けているのかしら…)


ゆらゆらとした浮遊感が、進むにつれて増していく。

足場は硬いはずなのに、まるで毛布の上を歩いている様だと、セピアは思った。

それでも進める足は、硬い地面の存在を響かせる。


オンブル伯爵が、金属製の扉を開けた。

鈍く重い音を微かに立てたその先にも、同じ様な通路が伸びていた。


何も言わず前を歩くオンブル伯爵の後ろ姿に、セピアは付いて行こうとしたが、扉から一歩入る事が出かなかった。


(…怖い)


自分の足が震えているのに、セピアは気が付いた。

制御装置が外れた今、この先に待つモノの正体を肌で感じ、恐怖していた。


(行きたく…ない)


セピアの顔から血の気が引いていく。

手足も冷たい。

セピアはまたプリシカ王国に居る皆に、心の中で助けを求めた。


「どうした」


躊躇しているセピアを、笑うでも、苛ついているでもない顔でオンブル伯爵は振り返る。

ただ、冷静にセピアが入って来るのを待って居る。


セピアは軽く頭を振り、一歩進んだ。

ぐにゃりと見ていた景色が歪み、セピアは体勢を崩すまいとして手を伸ばした。

冷たい壁の感触が手に伝わる。


(…気持ち悪い)


セピアは激しい吐き気に襲われた。

僅かに匂っていた臭気が、扉を境に濃くなっている。


甘ったるいような、生臭いような。

刺激臭も腐臭も、人間の汗の匂いが混じった混沌とした匂い。


(なんなのよ…これ…街のあの匂いとも違う。プリシカでは嗅いだ事がない…)


せめてもの気休めで、着ていた服の袖を伸ばし鼻に当てた。

服はかび臭かった。


(それでもマシ…ね)


一歩、また一歩とオンブル伯爵へ近付いていく。

通路を挟んで左右に部屋が並び、ドアには顔の高さに透明の小窓が付いていて、そちらを見ると中が見えた。

セピアは見ない様に、顔を真っ直ぐとオンブル伯爵へ向けた。


「周りは…気にならないかね?」


オンブル伯爵は追い付いたセピアに軽く微笑む。

その顔はアスールに似ていた。


「見ないわ…」


セピアはオンブル伯爵を睨みつけた。

ハッキリと憎悪と分かる感情を、人に向けたのはこれが初めてだった。


セピアの耳には、部屋からの声が聞こえていた。

中に居る人間の数も分かっていた。

各部屋には二人から三人。


断片的な声が聞こえ、何語を話しているかは分からないが、あまり良い雰囲気ではない。

荒い息とうめき声、布の擦れる音と水気を含んだ音。

女が拒否を叫び、男が笑い声をあげている部屋がほとんどだ。


『いや…止めて…に…帰して…帰りたい…帰りた…』


プリシカ王国の言語で泣き声がした。


『…か…あ……さ…』


違う部屋では言葉にすらならない声が、呟かれている。

セピアは耳を塞いでしまいたかった。

だが、塞いでも無意味だ。

無意識に感知してしまう魔法の所為で。


「そうか。知りたがっていた…と思ったんだがな」


そう言うと、オンブル伯爵は歩を進めた。


(知りたく…なんか…)


知りたい事等、何も無い。そう思った瞬間、セピアの頭に一人の顔が浮かんだ。


(アスールさん!)


「ここにアスールさんがいるの!?」


距離の離れていくオンブル伯爵に、叫んだ。

彼は「さぁね」と両手を顔の横に掲げ、左右に目と人差し指を振った。

軽い彼のノリと身振りに、セピアは唇をぎゅっと噛んだ。


「君の魔法ならすぐ分かるだろう?」


「なんせ、邪神から受けた膨大な魔力が有る」と、ニヤ付く。


「さあ、どこまでの範囲が分かるか、試してみると良い。もしかしたらアスールを見つけ…出口も見つけられるかも知れないよ?」

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