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セピアが足を踏み入れた場所は、先程のオンブル伯爵の部屋とは違い、暗く湿気でじっとりとしていた。
プリシカ王国では見た事の無い灯りが、ぽつぽつと等間隔に壁に掲げられ、辛うじて足元を照らしている。
炎の灯りが揺れる影を作るのに対し、この灯りは揺れない影を作る。
通路にタイルの溝に沿って黒い影が落ち、格子の上を歩いている様な錯覚に陥っていた。
(私は…ちゃんと歩けているのかしら…)
ゆらゆらとした浮遊感が、進むにつれて増していく。
足場は硬いはずなのに、まるで毛布の上を歩いている様だと、セピアは思った。
それでも進める足は、硬い地面の存在を響かせる。
オンブル伯爵が、金属製の扉を開けた。
鈍く重い音を微かに立てたその先にも、同じ様な通路が伸びていた。
何も言わず前を歩くオンブル伯爵の後ろ姿に、セピアは付いて行こうとしたが、扉から一歩入る事が出かなかった。
(…怖い)
自分の足が震えているのに、セピアは気が付いた。
制御装置が外れた今、この先に待つモノの正体を肌で感じ、恐怖していた。
(行きたく…ない)
セピアの顔から血の気が引いていく。
手足も冷たい。
セピアはまたプリシカ王国に居る皆に、心の中で助けを求めた。
「どうした」
躊躇しているセピアを、笑うでも、苛ついているでもない顔でオンブル伯爵は振り返る。
ただ、冷静にセピアが入って来るのを待って居る。
セピアは軽く頭を振り、一歩進んだ。
ぐにゃりと見ていた景色が歪み、セピアは体勢を崩すまいとして手を伸ばした。
冷たい壁の感触が手に伝わる。
(…気持ち悪い)
セピアは激しい吐き気に襲われた。
僅かに匂っていた臭気が、扉を境に濃くなっている。
甘ったるいような、生臭いような。
刺激臭も腐臭も、人間の汗の匂いが混じった混沌とした匂い。
(なんなのよ…これ…街のあの匂いとも違う。プリシカでは嗅いだ事がない…)
せめてもの気休めで、着ていた服の袖を伸ばし鼻に当てた。
服はかび臭かった。
(それでもマシ…ね)
一歩、また一歩とオンブル伯爵へ近付いていく。
通路を挟んで左右に部屋が並び、ドアには顔の高さに透明の小窓が付いていて、そちらを見ると中が見えた。
セピアは見ない様に、顔を真っ直ぐとオンブル伯爵へ向けた。
「周りは…気にならないかね?」
オンブル伯爵は追い付いたセピアに軽く微笑む。
その顔はアスールに似ていた。
「見ないわ…」
セピアはオンブル伯爵を睨みつけた。
ハッキリと憎悪と分かる感情を、人に向けたのはこれが初めてだった。
セピアの耳には、部屋からの声が聞こえていた。
中に居る人間の数も分かっていた。
各部屋には二人から三人。
断片的な声が聞こえ、何語を話しているかは分からないが、あまり良い雰囲気ではない。
荒い息とうめき声、布の擦れる音と水気を含んだ音。
女が拒否を叫び、男が笑い声をあげている部屋がほとんどだ。
『いや…止めて…に…帰して…帰りたい…帰りた…』
プリシカ王国の言語で泣き声がした。
『…か…あ……さ…』
違う部屋では言葉にすらならない声が、呟かれている。
セピアは耳を塞いでしまいたかった。
だが、塞いでも無意味だ。
無意識に感知してしまう魔法の所為で。
「そうか。知りたがっていた…と思ったんだがな」
そう言うと、オンブル伯爵は歩を進めた。
(知りたく…なんか…)
知りたい事等、何も無い。そう思った瞬間、セピアの頭に一人の顔が浮かんだ。
(アスールさん!)
「ここにアスールさんがいるの!?」
距離の離れていくオンブル伯爵に、叫んだ。
彼は「さぁね」と両手を顔の横に掲げ、左右に目と人差し指を振った。
軽い彼のノリと身振りに、セピアは唇をぎゅっと噛んだ。
「君の魔法ならすぐ分かるだろう?」
「なんせ、邪神から受けた膨大な魔力が有る」と、ニヤ付く。
「さあ、どこまでの範囲が分かるか、試してみると良い。もしかしたらアスールを見つけ…出口も見つけられるかも知れないよ?」




