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聖女に愛された侯爵令嬢は愛を貫く決意をする  作者: 樋口 涼
空の旅路

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55/67

5

「こういう時、聖人相手だと苦労するねぇ…」


アスールは頭を掻く。

水も生活や何かをする上で、切っても切れないモノだが、火も風も木も身近に有って断つ事が出来ない。

まして、まだまだノワールは遠く、二人が居るのは聖人の力が届くプリシカ王国内の小島だ。


「ね、だから…」


帰ろう。とアスールに同意を求める。

差し出した手の先は微かに震えていた。


水に落ちた筈だが、服も髪も濡れていない。

アスールの魔法で渇いている。

だから、この震えは体を冷やした寒さからの震えではない。


夕日に後ろから照らされ、次第に表情が見えなくなっていくアスールへの恐怖だ。

魚をさばいていた時の彼でも、マホンとの思い出を語る彼でもない。

薄っすらとした闇が、彼を覆う様に…セピアへもジリジリと迫って来る。


(目の前に居るのは…アスールさんよね…?)


差し出した手を彼が握る。

冷たく細い指先がセピアの手を覆う。


辺りが暗くなり始め、ブランの鳥が一匹、また一匹と姿を消していく。

揺れる木々の音は、結界に阻まれて聞こえない。

そして、中の音も外には聞こえない。


セピアは鼓動が速くなった。

水のベッドが揺れて、アスールが膝をかけた事が分かる。

座ったままのセピアとの距離が、縮まると揺れが彼女の体を上下に動かした。


「…」


二人共、何故か沈黙してしまう。

セピアはアスールが何を考えているか分からなかった。


青く長い髪の毛が、セピアの膝に落ちると、それを踏まない様に後退する。

透明な水のベッドは、夕日の赤と宵闇の黒を身に纏い、不安げに揺れた。


セピアの小さな体に沿う様に、アスールの髪が流れる。

組み敷かれ、セピアはそれ以上動けなくなった。

アスールが腕を曲げれば、セピアの身体はアスールの体の下だ。


セピアは握られていない方の手を、アスールの肩へ当てると押し返そうとした。

影を落としたアスールの顔を見ようとしたが、太陽の鋭い光が隙間から差し込む所為で目が眩む。


不意にセピアの顔に雫が落ちて来た。

頬を濡らすそれは、アスールの涙だった。


「ごめんよ」


そう言うと、彼はすっと体を離した。

整った横顔が日に当たり、彼の青い目から流れる涙が零れ、頬に線を描いていた。

震えるまつ毛は、涙で水面の様に煌めいている。


セピアの腕に巻かれていたネックレスが、彼の手の中にあった。

母親は銀髪の美しい人だと、ロケットを撫でながら、アスールは愛おしそうに言った。


(銀髪?)


「…聖女とは目の色が違って…目も銀色の…女性なんだ」


(髪も目も銀色って…それって…)


「彼女が…母がされた事を…俺も…君にしようとするなんて…」


ロケットを握りしめ、ボロボロと涙を零し、背を丸めた。


「すまない…すまない…」


セピアの心にはまだ、不安と恐怖が残っていたが、目の前で泣きじゃくるアスールを放っては置けない気がした。


「大丈夫…私は…大丈夫…だから、落ち着いて」


なだめる様に背を擦る。

縮こまったままのアスールは、傷付いた悲しい少年の様だった。


「大丈夫…大丈夫よ」


寄り添う背中が暖かい。


「母は…聖女だった」


(と言う事は…聖女様とアスールって…)


セピアの考えが伝わったのか、アスールは涙で濡れた顔を彼女に向けた。


「現聖女のシェリラ・スワレと…俺は…異父兄妹だ…」


見た目も育ちも、立場さえ雲泥の差だろう?と自虐的に笑う。


「アイツは…ぬくぬくと育って…俺は…こんな…」


ロケットの中を見ると、先代聖女スワレ様で間違いは無かった。

けれど、セピアは知って居る。


(聖女は一人しか子を産めない)


「…それは…誰から貰ったの?」


だから、聖女の兄などありはしない。

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