2
水が視界から消えると、セピアは見知らぬ部屋に居た。
馬車の預り所にある馬小屋よりも狭く、暗い。
その場所に、食器の入った棚と小さな机、ベッドが一つずつ。
たった一人だけが生活するにも狭い空間に、収められていた。
馬屋の番頭ですら、もう少しマシな部屋に住んでいる。
しかしそれが、聖人の一人であるアスールの家だった。
「ベッドの上に腰かけててくれ」
済んだ川の様な美しい髪が、到底部屋に似合わない。
が、棚からグラスを取る仕草が、アスールにとって慣れた、生活空間なのだと分かる。
「ほい」
いつもの様に手渡してくれるが、セピアは受け取る気になれなかった。
それに、ベッドにも上がりたくない。
「警戒してるね…」
笑いながらアスールは掌に、ふっと息をかけた。
小さな水の塊が、魚に変わると空を泳いでいく。
血を使う、あの招集魔法だ。
「迎えが来るまでここで我慢して」
「ここは?」
「俺んち。想像つかなかったろ?こんなボロ屋に住んでるって」
「お金が…無いの?」
「ははは。そう思うかい?」
セピアの拒んだ水をアスールは飲んだ。
聖人には生活や娯楽の為の金が、国から出ている。
他国に移動されない為のモノだ。
城下町の人達に奢る金で、消えている訳では無い。
装飾品の買い漁りでもない。
アスールは至ってシンプルな服装に、ピアス一つだけだ。
「じゃあ何故」
「こいつにはここがお似合いなんですよ、セピア嬢」
一瞬で水が湧き起こり、その中からブラッド卿が現れた。
セピアは思わず、通称であるブラッドの名を口にしかけたが、例え自分より下の位であっても、貴族に対してマナー違反だ。
「アーテル子爵が、どうしてここへ?まさか、教皇様が?」
怯えるセピアがアスールより更に後退し、壁に背をくっ付けた。
それに対して、薄ら笑いを浮かべたブラッド卿が「いやいやいや」と否定した。
「教皇様は関係ないですよ。アスールの知らせで参りました」
小さな女の子に話しかけるような、柔らかな口調ながらも、ブラッド卿からは節々に見下しの気配がする。
アーテル子爵は、アスールに近寄ると左頬を殴打した。
「きゃあっ」
アスールは机に当たり、音を立てながらよろけた。
セピアは目を瞑り、両手を口元へ動かし身を守る姿勢になる。
無意識の防御反応で、セピアの周りの空気が張り詰めた音がした。
「失礼いたしました…」
殴られたアスールの方が、床に片膝を立て、頭を垂れる。
聖人が子爵に頭を下げるなど、あり得なかった。
「驚かれましたか?コイツは私の甥なんです」
それなのに頭が高い。と、アスールを見下ろすアーテルは、ブラッド卿と比喩される赤黒い髪をかき上げ、満足げに笑った。
「甥だからって…」
「いえ、躾けは大事なんですよ。我が国では」
「我が国?」
プリシカ王国はこんな事しない。と、セピアは思う。
その考えを読んだかのように、アーテルは「この国じゃありません」と言った。
「ノワールこそ、わが祖国…」
驚くセピアに「貴女もでしょう?」と続けた。
「先祖が…でしょう」
「いえいえ、貴女は騙されている。貴女は我が国の人間だ」
「お父様達は…このプリシカ国の侯爵よ」
「そこだよ。あの人達に貴女は騙されている!」
「何ですって…子爵が…当主とは言え、侯爵令嬢に対して無礼よ」
「貴女は侯爵家の令嬢ではない」
「何を言うの!?」
セピアは胸を痛ませた。
いつも外見から親子ではない。と言われ続けた傷が、更に刃を突き立てられ抉られる気がした。
「貴女は赤子の時にソレイユ侯爵に拾われた、ノワール国の人間だ」
セピアは信じられない物を見る様に、アーテルの顔を見た。
そして、その下に跪いたままのアスールを。
「本当なんだ…セピア嬢…」
アスールの言葉に、セピアは足元から何かが崩れて落ちる気がした。




