164.あふれる想い(前)
夕食後の洗い物も終わり、帰り支度を終えた泰明さんがあがり端に腰かけて靴を履く。
わたしは先に土間に降りてそれをぼんやり見守っていた。
数日前からこのあとのお見送りのことを思っては悶々としていたのに、今はそれが消えている。
代わりにわたしの頭を占めているのはまったく別のことだった。それを考えるとちょっとだけ気が重い。
でも言うべきことは言わなければ。
「それでは姫様、おやすみなさい。また明日」
「うむ。背後に気をつけて帰るがよい」
姫様の不穏な言葉にも青年は微笑むだけで、気負う様子もなく玄関の戸を引く。
姿が闇に紛れてからもあとに続けないでいると、彼が戸口まで戻ってきた。
玄関灯に照らされた顔はこれからデパートに向かう子どものようにキラキラと輝いている。それを見て――にわかに気恥ずかしい感じが戻ってきた。
「……姫様もお見送りしますか?」
「いいから行っておいで」
くすくすと笑いまじりに言われてしまって、それでわたしもようやく足を踏みだす。
玄関をゆっっっくり閉めて振り返ると、門扉まで続く飛び石の中間で青年が両腕をさっと広げた。
その姿にふと違和感を覚えて、すぐに気づく。
マフラーがないんだ。
上には冬用のコートを着ているものの、ずいぶんとすっきりした印象を受ける。
泰明さんが腕を広げたまま手をこまねきする。
ぎこちなく彼の近くまで歩みを進めて、少し手前で立ち止まった。
泰明さんがまた手をちょいちょいと動かす。
わたしはそれに首を振った。横に、ふるふると。
「駄目?」
今度は縦に首を振る。
彼の眉がさも困ったように寄せられた。
「どうしても駄目?」
こっくりうなずく。
「そっか……わかった」
犬の尻尾が垂れるように両腕がぱたりと下に落ちた。
しょんぼりした気配がただよってくるけど、こればっかりは許してほしい。
「そのかわり、手を繋ぐのは許してくれる?」
「手……」
「駄目?」
懇願するような声を出されるとちょっと断りづらい。
手を繋ぐくらいなら健全、かもしれない。こくりとうなずくとすぐにわたしの両手がすくい取られた。
「ありがとう。ねぇ、ここでお喋りするの、すごく久しぶりだね」
それぞれを大きな手で握られて、おちゃらかほいをする前のように上下に軽く振られる。
嬉しそうな笑みにわたしも舞い上がりそうになるけど、一度深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
本題に入る前に、まずは謝罪からだ。
「泰明さん。先ほどは九摩留がすみませんでした」
責めるような声にならないように、でもはっきりそう言うと相手の動きがぴたりと止まった。
ほわほわしていた空気が瞬時に消えて繋いだままの手が下がる。
「ううん。僕こそごめんね。九摩留にはあとでちゃんと謝るから、許してくれる?」
「それは、もちろんです。でもその……ああいうのはちょっと困ります。挑発するような言葉はできるだけ控えていただけますか? あの子はすぐにカッとなっちゃうので」
言えば言うほどすまなそうな空気がただよってくる。
勝手に食事を抜け出したのは九摩留だけど――その原因は目の前の青年にもあると思った。
食事はみんなが集まる場。だからこそみんなが気持ちよく過ごせる場にしたい。
もちろん九摩留だって悪かったと思うけど、彼だけ仲間外れになるのもおかしな話だと思う。
「あの子にはわたしからよく言っておきますから、どうか泰明さんも大人の対応をお願いします」
「はい。これからは充分気をつけます」
きゅっと握る手の強さが増して、わたしもそれに応えた。
胸のつかえが取れたように気持ちが少し軽くなる。でも今度は自己嫌悪が襲ってきた。
泰明さんが挑発するようなことを言ったのは――思い上がりもはなはだしいけど、わたしのせいかもしれなくて。
それを考えると今わたしが言ったことは、今度は泰明さんを傷つけているかもしれなくて。
あらためてこうした人間関係の難しさに頭を抱えたくなってしまう。
「ごめんなさい……」
頭を下げると優しく笑う気配があった。握った手が軽く振られる。
「悪いのは僕だけだよ。あかりの気にすることじゃない。まぁ、なんていうか……悪気はなかったんだけどついからかいたくなっちゃって。弟ができると思ったら――」
「それ!」
反射的に大きい声が出て軽く咳払いする。
「それも、です。わたしが返事をしないうちからそんなふうに言うのは……やめてください」
恥ずかしくて目は合わせられないけど、それでもきちんと伝えるとうなずくように空気がゆれた。
「うん。ごめんね。これからは気をつける」
穏やかな声にホッとする。そこで会話が止まってしまった。
次はなにを話せばいいだろう。
前は……いつもはどんな話をしていたっけ。
なにか言わなきゃいけないのに頭のなかが空っぽで言葉が出てこない。
「あかり」
呼ばれた名前に顔をあげると、愛情に満ちた目がこちらを見つめていた。
うしろの玄関灯が瞳に細かい光を散らすようで――まるで晴れた夜空のようだ。
「好きだよ」
「…………っ」
ぼわっと顔が熱くなる。
手のひらがじっとり汗ばんできて、思わず繋いだそれをほどこうとするけど――泰明さんはどんどん指を絡めていってしまう。
「あの……あんまりそういうことは、言わないでもらえると……」
「えー? だってずっと言いたかったのにずっと言えなかったんだもん。ちょっとくらい許してほしいなぁ」
おどけたような口調にこちらもついつい頬がゆるむ。
困った。可愛い。
あぁどうしよう、わたしはもうダメかもしれない。
「でもその……まだお返事もできてないですし」
「返事がまだだからこそ伝えておきたいんだよね。積年のこの想い、あふれるこの想いがどうか届きますようにって。あ、もちろん承諾してもらったあとも毎日たっぷり伝えていくから心配しないでね」
「は、ぁ……」
自分でも困った気持ちが声に出ているのがわかった。
彼もそれに気づいたのか、表情がわずかに真剣味をおびる。
「軽い男とは思われたくないけど、言葉を出し惜しみするのも嫌なんだ。時と場所はわきまえるから……ちょっとだけ我慢して?」
「我慢……できないと言ったら?」
「我慢がまーん」
穏やかなささやきがふたたび明るい声に戻る。
互いの指を組みながら好きと言われるこの状況、ただひたすらいたたまれない。
というかそもそも――。
「泰明さんは……わたしのどこがいいんですか?」
思い切ってずっと気になっていたことを口にすると、え? と言いたげな空気が伝わってきた。
ちらっと青年を盗み見ると、彼はわずかに首をかしげていた。
「どこもなにも、全部だけど」
さも当然のように言われてしまい、わたしも口を閉じるしかない。
彼がそっと苦笑した。
「って言ったらさすがに漠然としてるよね。そうだなぁ……」
泰明さんはわずかに宙に目をやって、でもすぐにこちらに視線を戻した。




