163.恋の鞘当て(後)
「あれ? もしかしてあかり、言ってないの?」
「な……なにをですか?」
頬が引きつるわたしとは反対に泰明さんがにこにこしながらこちらにやってくる。
わたしのかたわらに膝をつくとおひつのしゃもじを取りあげた。黄色いカレーの池に白いご飯がそっとよそられていく。
「九摩留。僕ね、あかりにプロポーズしたんだ」
「泰明さん!?」
わたしの叫びにも彼はこちらを見てにこっと笑っただけだった。
すぐに九摩留に顔を戻して新しいライスカレーをはいと渡す。
血の気の引く思いで弟を見れば、彼はよくわかっていないのかきょとんとした顔でそれを受け取っていた。
「なんなら今から兄さんって呼んでくれていいよ。もちろん兄貴でもお兄ちゃんでもいいし」
「泰明さん! やめてください!」
「どうして?」
「どうしてって……」
心底不思議そうな目を向けられて言葉に詰まる。
泰明さんも九摩留も、ありがたいことにわたしをお嫁にと望んでくれた。
それは本当にありがたいのだけど――わざわざそれを相手に言う必要はないのでは?
なんだか宣戦布告的な感じで物騒だし、ただでさえいいとはいえない二人の仲がよりギスギスしそうでかなり嫌だ。
それに、そもそも泰明さんと結婚するとは決まってない。
こちらの返答前だというのになんてことを言うのか。
「お前が俺の兄貴とか、なにわけのわかんねぇこと言ってんだ? 相変わらず気持ち悪ぃ野郎だな」
「この前あかりに求婚したんだよね」
九摩留のカレーを混ぜる手がとまった。
思わず手で顔をおおう。ちょっともう見てられない。できれば耳も閉じてしまいたい。
「僕とあかりが夫婦になったら、あかりの弟は僕の弟でしょ? そういうわけで、これからもよろしくね」
「あっそ。おめでたい奴」
聞こえてきたのは落ち着いた声だった。
怒りださないことが意外で、思わず顔から手をどける。
九摩留は平然とした様子でカレーをぱくつきながら、わたしと泰明さんを交互に見た。
「あかりは一生ここで俺とお姫の三人だけで暮らすって言ってんだぜ。なんか言えば言うほど自分がみじめになるだけだからよ、恥ずかしいから黙っとけ」
「……あかり、そんなこと言ったの? いつ?」
泰明さんが首をゆっくりめぐらせる。
向けられた瞳はまっ黒で、表情はすべて綺麗に抜け落ちていた。
絶望感と威圧感がすごい。
「えっと……少し前に……」
九摩留をちらっと見ると満足そうな笑みでうなずかれる。
次に姫様に目を向ければ、彼女も猫のような笑みで小さくうなずいた。
男はそれ以上のことは言わずに食事を再開する。
わたしもそれを見てようやく確信できた。
どうやら彼は、わたしとキスしたことを言うつもりはないらしい。
というか、そもそも彼はそのときのことを本当に忘れてしまったらしい。
姫様いわく、わたしが九摩留に頭突きした瞬間それはそれは大きな静電気が発生したらしい。それで一部の記憶が飛んでいるとのことだった。
にわかには信じがたい話であるものの、でも今のところ九摩留はそのことでわたしをからかたりしてこない。もしちゃんと覚えているなら彼の性格上、間違いなくからかってきたと思う。
一応それとなく本人に確認すると、どうやら裏山に逃げて以降の記憶がなくなったようだった。
そのことは彼も不思議がっていたけど、一晩寝たら記憶がないことも忘れてしまったらしい。
つまりこのことはわたしの胸にしまっておけばなにも問題ないといえる。
姫様に見られているけど。
なかったことにはならないけど。
急に思い出しては地べたを転げ回りたい気持ちに駆られるけど。
きっと、なにも、問題はない。
ないったらない。
「少し前って……佐山さんのお祝いをするよりも前のこと?」
「は、はい」
恐るおそる返事をすると、彼はなぜかにっこりと笑った。
不意を突く笑顔に妙な胸騒ぎを覚える。
「そっか。ごめんね、僕があかりを好きだって言えずにいたから、だからそんなふうに思い詰めちゃったんだね」
「へ?」
泰明さんが九摩留に目を向ける。
横顔は相変わらずの笑顔で、なのにどこか歪んで見えた。
「みじめだね九摩留。そんな言葉にすがったって無駄なのに」
「あ゛?」
「泰明さん?」
青年は優しい声音で辛辣なことを言う。男の眉間がぐっと寄った。
「大好きなお姉ちゃんとずっと一緒にいたいっていう気持ちはわかるよ。でももう子どもじゃないんだから現実を見ないと。ちゃんとお姉ちゃん離れしないと自分のためにならないよ」
「……わかんねえ奴だな。俺とあかりは夫婦になるんだよ。そんでお姫が俺らのガキだ。お前の居場所なんかどこにもねえんだよ。わかったらさっさと帰れ。二度と来んな」
「あぁ、おままごと? 懐かしいな、僕たちも小さい頃はおままごとしてよく遊んだよね」
九摩留に凄まれても泰明さんは動じない。わたしに優しく笑いかけてくる。
どうしよう、生きた心地がしない。
「それじゃあ九摩留は番犬でいこうか。僕とあかりは夫婦、姫様は優しいおばあちゃまってことで。ほら九摩留、早く犬に化けて出てってよ。不審者がいたらちゃんとワンワンって吠えるんだよ?」
「不審者はテメェだろ。ざけんじゃねえよ」
「九摩留!」
男がスプーンを置くなり青年の胸倉をつかむ。
二人の間で高まる緊張感に、気がつけばわたしも自分の胸元をきつく握っていた。
腋や背中がじっとりしめる。
張りつめた空気に呼吸が浅くなる。
どうしよう、こんなのは嫌だ。わたしのせいで誰かがいがみ合うとか冗談じゃない。
わたしのせいで喧嘩が起きるくらいなら――今すぐこの世から消えてしまいたい。
「ふたりともその辺におし」
右腕に小さな手がそえられた。
見れば姫様がスプーンをお皿の縁に置くところだった。
「仲良くせよとは言わぬ。だがあかりの前でいがみ合うのはやめよ。我が嫁御は繊細なのだ、これではこの子の神経がもたぬ」
「いがみ合うだなんて……ただの兄弟喧嘩じゃないですか。親睦を深めようとしているだけです。ねぇ九摩留?」
「表に出ろ。ブチ殺してやる」
「泰明、また出禁になりたいかえ?」
「申し訳ございませんでした。悪かったね、九摩留」
ふたりに深々と頭を下げてから泰明さんがわたしに向きなおる。
視線を交わした途端、彼はあっと言うような顔をした。
その目に不安と心配の色が浮かぶ。
「ごめんねあかり、すっかり嫌な気持ちにさせちゃったね。大丈夫? 具合悪くなっちゃった?」
「いえ、大丈夫です……すみません」
お腹は痛くなってないけど顔色が悪いのかも。
心配させまいと笑ってみせるも、彼の表情はますます曇ってしまった。
「ごめん……本当にごめんね」
「いえいえ、大丈夫ですから」
「あ――――クソッ! 胸糞悪ぃ!」
いきなり九摩留が叫んで立ち上がった。
そのままドスドス音を立てて土間におりてしまう。
「ちょっと九摩留!?」
「出かけてくる!」
「バイバイわんちゃん、あとで犬小屋作っ――すみませんごめんなさいもうしません」
なんてことを言うんだと思ったのはわたしだけじゃなかったらしい。
わたしと姫様の視線を受けて、泰明さんがふたたび頭を下げる。
普段の彼はとても優しい人だけど、相手によってはちょっとだけ攻撃的になると知っていた。
知っていたけど、その相手は田母山神社の大先生だけかと思っていた。
どうやら九摩留にもそうであるらしいとわかって、わたしは心のメモに要注意と書きこんだ。




