162.恋の鞘当て(前)
四月一日を迎えると屋敷では食事の場が大きく変化する。
それまではお勝手の囲炉裏を囲んで食べていたのが、この日からは居間にちゃぶ台を出して食事をするようになるのだ。
料理も器を卓上に置いたまま食べるような洋食が折々で並ぶようになる。
今日の夕食はその料理の代表格、ライスカレー。
いつの頃からか毎年この日になるとカレーを食べることが恒例となっていた。
「んふふ、いい匂いだのう。これぞ屋敷の春といったところか」
いつもは囲炉裏の横座で食事前の晩酌をしている姫様も、今日は土間におりてわたしのまわりをずっとちょろちょろしている。
目の前のコンロでは大きな鍋がくつくつコトコトあぶくを立てて、屋敷中にいい匂いをただよわせていた。
この独特の食欲をそそる匂いにわたしのお腹もグーグー鳴りどおしだ。
「腹減った……」
隣でつけあわせのポテトサラダを作る九摩留もげっそりした顔でつぶやく。彼はカレーのルーを作りはじめたときからそれしか言わなくなっていた。
姫様も九摩留も、そしてわたしも。ライスカレーはみんなの好物のひとつなのだ。
そろそろ火を止めようかと思ったときだった。
玄関の戸がガラリと大きく引かれる。
誰なのかは今さら確認する必要もないわけで。
「おかえりなさい泰明さん!」
頭のなかで何度も予行演習していた通り、すぐに首をめぐらせてお腹の底から声を出す。
自分に考える余裕を与えないこと、それが大事だ。
開いた玄関には思ったとおりの人物――泰明さんが立っていた。
一瞬虚を突かれたような顔に、ゆるゆると花開くような笑みが浮かぶ。
歓びを隠さない大輪の笑顔に熱が昇ってくるけど、頭を空っぽにしてもう一度丹田に力をこめる。
「今日もお疲れ様でした! 手洗いうがいをして居間でお待ちください!」
彼に告白されたあとのわたしはひどかった。
目を合わせない、ろくに口をきかない、おどおどビクビクしっぱなしで。人として最低な態度を取ってしまった。
でも今日からは違う。
彼に対する返答が決まっていなくても、それはそれ、これはこれ。以前と変わらない態度でいようと心に誓ったのだ。
泰明さんは一歩踏み出しかけて、それから視線をわたしの隣にずらした。
「姫様こんばんは……あの……」
「よい。入れ」
「あかり、ただいま!」
笑顔も晴れやかに青年がこちらに駆けよってくる。
目をそらさない! 自分にそう言い聞かせて彼の顔を凝視していると、横から大きな背中が割り込んできた。
空気にピリッと緊張が走る。
「やぁ九摩留。そこどいてくれる?」
「断る」
「でもそこにいると邪魔なんだよね。どいてくれる?」
「テメェがどけよ。俺の前から一生どいてろ」
九摩留の背中しか見えないわたしには声しか聞こえない。
朗らかな青年の声と不愛想な男の声は対照的で、なのにふたりの気配はとても似通っていた。
一言でいえば不穏。
せっかくおさまった胃痛がぶり返してきそうだった。
「も……も~九摩留ったら、お腹空いてるとすぐ不機嫌になるんだから。ほらほら早く食べる準備しましょうね。泰明さんもうがい手洗いをお願いします。さぁ姫様! お待ちかねのライスカレーですよ~」
内心ひやひやしながら無理やり明るい声を出して、ふたりのあいだをわざと通り抜ける。
福神漬けと甘酢ラッキョウの鉢をちゃぶ台に置きつつ背後に意識を向けていると、ほどなくしてふたりはその場から離れたていった。
気がつけば自分の口からはため息がもれていた。
ちゃぶ台の円卓は囲炉裏に比べるとずっと狭く感じる。
おかげでみんなとの距離が近くて、それがなんだかこそばゆい。
泰明さんはわたしの正面、右と左には姫様と九摩留が座ってさっそくいただきますをする。
隣同士の泰明さんと九摩留に一抹の不安を覚えるけど、一応険悪な感じにはなっていなかった。
「おいしい!」
「お口に合ってよかったです」
青年がカレーを食べて開口一番、うれしそうな声をあげる。
にこにこパクパク食べる姿になんだか妙にホッとした。それに例の告白を感じさせるそぶりがないことにも安心する。
「味を変えたかったらソースでも醤油でも遠慮なくかけてくださいね。一味もコショウもありますよ」
「ありがとう。でも僕はもう少しあかりのカレーを味わってからにしようかな」
言いながらも泰明さんの表情がわずかに変化する。
隣のもの言いたげな視線に気づいたのか、カレーにがっついていた男が顔をあげた。
「なんだよ文句あんのかよ。ルーの量が少ねぇんだから仕方ねえだろ」
九摩留はむすっとつぶやいて、それからまたガチャガチャ音を立てながらスプーンをせわしなく口に運ぶ。
彼は最初のひと口を食べる前から卓上のソースをジャバジャバかけて一気に混ぜこぜにしていた。その色味は黄色から黒っぽい茶色へと変貌している。
あれじゃあカレー風味のソースご飯というべきか。
「もー……ご飯の量が多すぎるから味が薄まっちゃうのよ。普通盛をおかわりすればいいのに」
「んなこと言ったっておかわりは三皿までだろ? それじゃ全然足りねぇよ。俺は――」
「育ちざかりなんだから、でしょ。はいはいわかってます」
すでに半分以上がなくなっているけど、九摩留のお皿のご飯は他の人の二倍もあった。
あいにく一皿にかけるルーの量はお玉二杯までと決まっているから、それはソースもたっぷりかけないとぼやけた味になってしまうだろう。
「足りぬなら他の菜で飯を食えばよかろう。そうやって考えなしに行動するからせっかくの料理を台なしにするのだ。少しは作り手の気持ちも考えよ」
姫様の言葉にも男はフンと鼻を鳴らしただけだった。
でもちょっと思うところがあったのか、その手の動きがにわかに止まる。
こちらをちらっと見る目にはご機嫌をうかがうような色があった。こういうところが憎めないというか。
「別に怒ってないよ。でも食べるときはもう少しお行儀よくね。背中はそんなに丸めない、食器はガチャガチャいわせない。わかった?」
普段はそんなことしない子だけど、カレーには我を見失うほどの魔力があるのだろう。
軽く注意すると男がこっくりうなずく。それから背筋を正してちょっとだけ食べるスピードをゆるめた。
音がガチャガチャからカチャカチャに変わる。素直でよろしい。
「泰明さんもおかわりしてくださいね。遠慮はなしですよ?」
「ありがとう。遠慮なくいただきます」
彼は自分のお皿に目を落としてちょっと照れたように笑った。
泰明さんもカレーが好きなのか、食べるペースはいつもよりずっと早かった。その残りはあと数口ほどとなっている。
「わしも食事にしようかの。あかりや?」
「はい」
姫様からお皿を受け取って、脇に置いていたおひつからご飯をよそる。
彼女はカレーのルーとポテトサラダを肴に焼酎で晩酌していた。
「あかり、俺のも! おかわり!」
「順番こにね」
あぁ、平和だ。なんだかすごく心が安らぐ。
あたたかな食事に和気あいあいとした空気――これこそわたしが望んでいたものだ。
と、思っていると泰明さんが立ちあがった。
「九摩留のは僕がやってあげるよ。ルーは二杯でいいんだよね?」
「あ、わたしがやりますから! 泰明さんは座っててください」
慌ててとめに入るも、彼は九摩留の手からお皿を取って土間におりてしまう。
「いいのいいの、だって九摩留は僕の弟になるわけだから。お兄ちゃんとして面倒見てあげないとね」
「……………………はい?」
「あ?」
思わず九摩留と顔を見合わせ、次いで姫様に顔を向ける。
彼女はなにも知らないというように首を横に振った。でもその赤い眼は面白そうに輝いている。
なんだか嫌な予感がした。




