160.赤ん坊のご挨拶(中)
若先生夫妻には縁側から直接座敷にあがってもらい、床の間の前に座す姫様と向き合うように並んで座ってもらった。
わたしと九摩留は彼らから少し離れて襖の前に腰を据える。結局九摩留は昼寝をしないことにしたらしい。
「名を宗嗣と申します。どうかこの嬰児を慈しみ、病にかからずすくすくと成長して立ち栄えますようお見守りいただきたく、恐れながら謹んで申し上げます」
和ちゃんは姫様への挨拶と我が子が産まれて無事にひと月が過ぎたことのお礼、そして成長祈願を述べると手をついて深く頭を下げた。さっちゃんもそれにあわせて深々と頭を下げる。
腕に抱いた宗嗣ちゃん――宗ちゃんが近くなったお母さんの顔を見て甘えるような声を出した。
どうやらすっかり機嫌が直ったらしい。
「どれ、その愛らしい顔を見せておくれ」
姫様の言葉を通訳して立ち上がり、彼女の姿が見えないさっちゃんを誘導する。
少女の手前に正座したさっちゃんは緊張しているようだけど、宗ちゃんはそうでもないらしい。
膝立ちになってのぞきこむ姫様が愉快な表情をつくった途端、きゃっきゃと楽しそうに笑いだす。
ついで彼女は指を一本立てて宗ちゃんの顔の前であちこちさまよわせた。つぶらな瞳はその指をしっかりと追っている。
「ふむ。視えるようだな」
「あぁ…………!」
「ありがとうございます……っ」
少女の言葉に夫婦が声を詰まらせる。
田母山神社の大先生と老先生――和ちゃんのお父さんとおじい様は完全な見鬼だ。姫様や神社のご神使である田母山様といったこの世ならざるものを認識できる。
でも、和ちゃんはそうじゃなかった。
彼がわかるのは田母山様の声だけ。だから生まれてくる子がどうなるかという不安がずっとあったのだろう。
まわりからの重圧もあったのかもしれない。
「あとはわしの声がわかるかどうかだな。しばらくしたらまた連れてくるがよい」
「はい! あぁよかった……! これも幸子のおかげだな」
「なに言ってるのよ。私はなにもしてないわよ」
「幸子よ、そこは存分に己の功績とするがよい。今のうちに和嗣の頭が一生あがらぬようしっかりと躾ておけ」
姫様の言葉を伝えると二人が笑う。
両親の明るい笑い声に宗ちゃんも嬉しそうな声をあげた。
お嫁さんのさっちゃんは倉橋の分家筋で、五つまでは姫様の姿を視、声も聴くことができた。もしかしたらその辺もいい影響を及ぼしたのかもしれない。
「宗嗣は田母山殿も視えるようだな。御仁は子煩悩であるから可愛くて仕方なかろうのぅ」
「ええ、田母山様にはすっかりお世話になっておりまして。うちの母親に負けないくらい宗坊のそばにおられて、朝な夕なにあやす声が聴こえております」
「今もこの子の帰りを待ちわびておるようだな。山道の入口でずーっとうろうろぐるぐるしておるわ」
「宗嗣も親の私たちより田母山様が好きなようです。ちょっと姿が視えないとあのように大泣きする始末で……」
「ここに呼んでも構わぬぞ?」
九摩留がわずかに腰をあげた。
きっといつでも逃げられるようにしているのだろう。彼は田母山様が苦手なのだ。
でも和ちゃんが首を横に振る。
「いえ。お山様には二人、ではなく三人で参ると決めておりましたから。田母山様には大変申し訳ないのですが、ちょっとの辛抱ということで」
青年が苦笑すると少女もカカッと笑う。
お宮参りは親子とその祖父母も付き添うけど、屋敷に赤ちゃんのご挨拶で来るのは親子だけ。そういうしきたりとなっていた。
たとえ神社のご神使であっても、そこは守ると決めたのだろう。
姫様の仕草を受けてさっちゃんを座布団に戻らせる。
少女は両手を袖にしまうと赤い眼を細めた。
「和嗣も幸子も立派になったのう。和嗣はふにゃふにゃ泣いてばかりで言葉も遅かったものだが。幸子も疳の虫の強い子であったがのう。そうか……あの二人がもう親か」
思い出に浸るようにわずかに沈黙して、それから彼女はとても優しい笑みを浮かべた。
「宗嗣よ、つつがなく健やかにあれ。おぬしの道に幸多からんことを。三人とも大儀であった。あとはあかりと世間話でもしていくがよい」
和ちゃんとさっちゃんが深々と頭を下げる。
赤ちゃんのご挨拶はこれで終了だ。
姫様以外は居間に移動して、ふたたび座布団をすすめる。
九摩留にはお茶とお茶請けをお願いして、わたしはさっそく赤ちゃんのそばに陣取ってかわいいお顔を拝見した。
ここからのわたしは世話役じゃなくてただの二人の同級生。
肩ひじ張らないお喋りだ。
「さっちゃん、お産本当にお疲れ様でした。元気な赤ちゃんが生まれたね。目元はさっちゃん似、口元は和ちゃん似かな?」
「ふふ、そうかもね。お山様の血が流れてるんだから、きっと男前に育つわよぉ」
「いいね~宗ちゃ~ん。かっこいい男の子になっちゃうね~」
宗ちゃんはこちらの会話などつゆしらず、つぶらな瞳をきょろきょろさせながら指をしゃぶっている。
真っ黒なお目めと青みがかった白目は美しく澄んで、ふくふくしたほっぺももちもちの腕も見るからに柔らかそうで愛くるしい。
赤ちゃんからさっちゃんに目を移すと、彼女はくすぐったそうに笑って我が子の頬をそっとなでた。
ちらっと和ちゃんを見れば、彼も二人を慈しむように優しい笑みを浮かべていた。
そこにいつもの子どもっぽさはなくて、ちゃんと父親の顔になってるなぁとしみじみしてしまう。
三人がどこまでも輝いて見えるようだった。
尊くて、優しくて、愛情に満ちていて。わたしの胸にもあたたかいものが広がっていく。
なのに――どうしてだろう。胸の奥がちょっとだけ痛い。
宗ちゃんがふわぁと大あくびをする。それを見てさっちゃんにもう数枚座布団をすすめた。
座布団に寝かされた赤ちゃんが眠りに落ちるのを見守って、それから九摩留が運んでくれたお茶をみんなで味わう。
両親にはささやかな休息なのか、ほっとしたように表情がゆるんでいた。
「和ちゃんも、さっちゃんと宗ちゃんが無事で安心したね。これでますます仕事に張りあいが出るでしょ」
「そうだな、ふたりにうまいもん食わせるためにも頑張らないとって思うよ。いやぁ……とにかく安心したよ。宗坊までお山様がわからなかったらって……気が気じゃなかったからさ」
青年は気が抜けたように――でも晴ればれした顔で笑う。
安心の意味が別のものに変わっていた。
そんな彼の肩にさっちゃんがそっと手を載せる。二人にしかわからない心労がきっとたくさんあったのだろう。
「あっそうだわ! あかり、先日は素敵なベビー服をありがとね。はやくあれを着せて一緒にお出かけするのが楽しみなの。あのベビー服ってミシンで縫ったのよね? 私にも作れる?」
「うん、そこまで難しくないから今度教えてあげるね。実はわたしも赤ちゃんの洋服作るのははじめてで――」
彼女の出産祝いにはベビー服を贈っていた。
他の人と被るのを避けて、サイズはかなり大きめに作ってある。すぐに着られるものじゃないけど半年後には袖を通せるようになるだろう。
男たちそっちのけで喋っていると、ふいに縁側から少女が顔をのぞかせた。
彼女の言わんとすることが分かって、両親に許可をもらい宗ちゃんを少し離れた場所に移動させる。
そろりそろりと忍び足でやってきた姫様が赤ちゃんのそばに寝転んだ。
頬杖をついてにこにこと赤ちゃんを眺める姿はまるで弟の誕生をよろこぶお姉ちゃんのよう。見ているこちらまで笑みが浮かんでくる。
生まれたばかりの子は姫様の気配に鈍感だ。
でもあと半年もすれば威圧と恐怖を感じて彼女を恐れるようになってしまう。
それは少女の神気と本性がそうさせてしまうわけで――。
だからこのひとときは、姫様にとってかけがえのない時間なのだ。
縁側から春のまどろむような空気が流れてくる。
ちょっと離れた場所で眠る赤ちゃんと子守りをする姫様を眺めながら、わたしとさっちゃんはベビー服や彼女のお産、妊娠時期の話に夢中。
和ちゃんと九摩留も微妙な空気感ながらまあまあ会話が続いているようだった。
おかげで少しだけ、のはずがいつの間にか長くなってしまったらしい。
少女と青年がパッと顔をあげた。
同時に男がすごい勢いで縁側を飛び出していく。
わたしもさっちゃんも何事かと驚き――でもすぐにあぁ、と思い直した。
「田母山様ですか?」
「うむ。今しがた悲痛な遠吠えがしてな、やっぱりぼくもそっち行くー、と。来たぞ」
姫様の言葉が終わらないうちに景色を歪ませる透明な塊が庭に滑りこんできた。
子どもほどの大きさがある陽炎が縁側の前でぴょこぴょこ大きく上下する。和ちゃんが苦笑して立ち上がり、赤ちゃんを抱きあげて縁側にその腕を伸ばした。
まばたきした次の瞬間には赤ちゃんの姿が消えていた。
でも誰も焦りはしない。
さっちゃんは少しそわそわしているけど、和ちゃんの穏やかな顔つきに心配することはないとわかるのだろう。
これは神隠し――姫様や田母山様がこの世のものに触れているあいだ、あるいはその神域に入ってしまったときなどに起こる現象だ。
まさに神隠しと言われるままに、それは姿をくらませてしまうのだ。
存在がなくなるわけではないけど、まるで透明人間になったようにただの人には見えなくなってしまう。
「会いたかったよー宗ちゅあん。んもう、きゃんわぃいなぁ。宗ちゃんはなーんてかわい子ちゃんなんでちょーね。んーちゅちゅちゅちゅちゅ」
姫様が田母山様の言葉を声まね付きで通訳してくれる。
その言葉で御仁は宗ちゃんにメロメロだということがよくわかる。そして赤ちゃんは今、キスの雨あられ状態なのだと理解する。
ご神使のキスだなんてきっとすごく縁起がいいに違いない。




