157.悩む世話役(前)
結局、泰明さんに対する過剰反応は本家でお世話になっている間じゅうずっと続いてしまった。
仮病で休んだのは一回だけで、それ以降はいつものように彼の隣で夕食をとらせてもらったけど――どうしてもちょっとした動きに肩が跳ね、目が合うと反射的にそらし、話しかけられても頭が真っ白になってトンチンカンな返事をする始末だった。
そんなことしたくないのに、自分で自分が制御できない。
せっかく泰明さんが好きだと言ってくれたのに、これじゃあ嫌われてしまう。
いや……いっそのこと嫌ってもらったほうがいいのかも……?
「あ~~~~……」
夕食の下ごしらえを終えて囲炉裏の定位置で膝を抱える。
薪が静かに燃える音、それに赤々と輝くあたたかい炎。いつもだったらやすらぎを与えてくれるそれは、今は残念ながらなんの効果もなかった。
もうすぐ姫様と九摩留が帰ってくる。
そうなると今月いっぱい――つまり三日ほど泰明さんとは会わない日が続くことになる。
いったん冷静になる時間が欲しかったから、これはすごくありがたい。
次に泰明さんと会ったときには普通に接したい。これまで通りの態度でふるまいたい。
あぁでも問題は帰り際、いつもしていた行為だ。泰明さんがわたしに特別な好意があると知った今――。
特別な好意。
それをちらっとでも考えただけで恥ずかしくなる。
嬉しいけど恐ろしい。それに畏れ多い。
「あぁもう……どうしよう……」
結婚してください、と。
泰明さんの声がよみがえって顔が熱くなる。
膝に頭をぶつけて耳から声を追い出そうとしても、ますますたくさんの言葉がよみがえってきてしまう。
というかなにを考えていたんだっけ? そうだ、抱き合う行為は今後どうしたらいいんだろう。
ぎゅっとしたいけどしたくない。
ぎゅっとされたいけどされたくない。
少なくとも今わかっていることは――また抱きしめられて、それであの甘やかな声を聞かされた日にはきっとどうにかなってしまうということ。
全身が木っ端みじんに爆発するかもしれない。
「ああぁぁぁ……はぁぁぁぁあああっ!」
「カカッ、青春しておるのう」
「!?」
鈴のような声にビクッとする。
驚いて顔をあげると、いつのまに帰ってきたものか姫様がわたしの隣に座っていた。
わたしと同じように抱えた膝に片頬をつけ、赤い眼を面白そうに輝かせてじっとこちらを見つめている。
「姫様……!」
思わず手を伸ばして小柄な身体にぎゅうっと抱きつく。
小さな手に頭を撫でられて。それに懐かしい白檀の香りに満たされて。
なんだか涙が出そうになるくらいほっとする。
「おかえりなさい、姫様」
「ただいま、あかりや」
いつものやりとりをした直後、なぜかギクリとする。
おかえりって言ってもらえないと家に帰った気がしない――泰明さんがそう言っていたのを思いだしてしまった。
「あ――――……ああぁあぁぁ……」
「ふむ、翻弄されておるのう。今宵は存分に飲み明かしてすべて吐き出すがよい」
久しぶりのあかり飯はなんであるかのう、と姫様が嬉しそうにささやく。
その声にまたひとつ言葉がよみがえった。
わたしのご飯を食べたいと言った、あの切ない声――。
「うぐぅぅぅ!」
「カッカッカッ、愉快ゆかい! それはさておき腹ぺこだ。飯の支度に取りかかろうか」
姫様に促されてゆらりと立ち上がる。そこでふと気がついた。
「あれ……九摩留はどうしました?」
声がしないことには気づいていたけど、まわりを見ても影さえない。
少女は長い白髪を払ってにやりと笑う。
「あれは追試だ」
追試という言葉に、学校の机にかじりついて必死にテストを受ける男の姿が思い浮かんだ。
「おこもりの間は姫様が勉強を教えてたんですか?」
「うむ。純粋な力比べならいざ知らず、格闘となれば心技体を要するからの。図体ばかりでかくてもその使い方を知らねばただの木偶。ゆえに此度は少々手ほどきをしてやったのだが……やはり一朝一夕には成せぬなぁ」
「もしかして武術のお稽古ですか?」
お父さん――先代世話役も剣術弓術柔術と、その道をいろいろ修めていたという。
わたしは武術の教えを受けなかったけど、もしかしたら姫様はわたしの代わりに九摩留を鍛えようとしているのかもしれない。
「野生では強い雄が雌をものにできるからの。あかりも弱い男より強い男のほうがよかろう?」
「そうですね」
一度うなずいてから、でもちょっとだけ首をかしげる。
現代社会は暴力で成り立つものじゃないし、ペンは剣より強しとも言う。
どちらかといえば鍛錬はほどほどに、漢字や計算のドリルを頑張ってほしいところだ。
「今宵は無礼講、女だけで遠慮もなし。キミ子にも諸々話せておらぬのだからストレスも相当であろう。わしと酒とでおぬしを癒してやろうてなぁ」
「あうぁー……」
ストレスと癒しという単語は今のわたしには禁句だ。
いろんな記憶があふれてきて頭を床に打ちつけたい。そのまま記憶喪失になりたい。
それを姫様はわかっているのか、くすくすと笑いながらわたしの腰をポンと叩いた。
今夜の夕食は煎り鶏に青柳のぬた、ホタルイカと菜の花の和えもの、揚げ出し大根。
それからニンジンやゴボウ、椎茸を混ぜた稲荷ずしと根菜類の味噌汁という献立にした。
明日には帰るらしい九摩留のぶんを取り置いて、姫様とわたしだけの落ち着いた酒宴がはじまる。
「あかりや、最初から飛ばすと身体に毒だえ」
「わかってます。あとはゆっくり飲みますから」
乾杯をすませて立て続けに三杯飲み干すと姫様がくすくす笑った。
これからする話はしらふでは恥ずかしすぎる。お酒で口をなめらかにしないと何度もどもってしまうだろう。
「それで、祝言はいつにするのだ?」
「コパッ!」
四杯目のお酒が変なところに入ってゲホゴホとむせてしまう。
咳きこむそばからアルコールが体内をかけ巡るようだった。
「まだ夫婦になると決まったわけでは……!」
「だが好いておるのだろう? あの者もおぬしを好いておる。ならば話は簡単だ」
「でも! わたしの背中にはアレがあるんですよ? それにお父さんだって……わたしの本当の両親だって……」
一瞬の高揚がどんより曇ってしまう。
姫様のお酌を受けて、わたしは五杯目を一気飲みした。
「きっとわたしは忌子だから――」
「それは違う」
言葉の途中できっぱりと否定される。
彼女がお猪口から小鉢に手を伸ばすのを見て、わたしも飲んでばかりでは身体に悪いとぬたを口にした。
少し苦みのある貝が甘い酢味噌によく合っている。青ネギの風味とシャキシャキした食感もいい。
噛み続けていると酢味噌とは違う貝の甘味が感じられて、そこにお酒をひと啜りすると黒雲が晴れていくようだった。
……わたしは存外、元気らしい。
「おぬしの親は、確かにこの地におぬしを残して去っていった。だがそれはおぬしに非があってのことではない。やむにやまれぬ事情があったからだ」
「それならどうしてですか? 置き去りにするだけでいいのに、どうしてわざわざこんな傷をつけるんですか? この傷にどんな意味があるんですか?」
姫様はなにも言わない。
泰明さんは以前こう言ってくれた。
わたしは悪人に攫われて凶手にかかったのかもしれない、と。
その言葉にすがりたかった。夢を見ていたかった。
でも今の姫様の言葉で現実を理解する。
「姫様……もしなにかご存じなら教えてください。お願いします」
少女はお猪口を持ちあげて、でも口をつけることなく炉縁に戻した。
着物の袖に両腕をしまい囲炉裏の火に眼を向ける。
わずかな黙考のあとで愛らしい唇がそっと開かれた。
「あかりよ。わしは木の葉の一枚、朝露の一滴、砂塵の一粒である。この地のいずこにも宿る自然神ゆえ、この地で起こることのすべてを把握できると言えよう」
ちらりと視線を投げかけられる。
そこに浮かんでいるのは憂いか、はたまた憐れみか。
「だが自然とはただそこにあるもの。この地のあらゆる事象を見聞きしても、それの意味をも知るとは限らぬ」
赤い眼がふたたび囲炉裏の火に移り、唇からほうっと吐息が漏れた。
「おぬしの親は旅人であった。わしの知らぬ信仰や習わしを持つものたちであった。よって背の印の意味はわしにはわからぬし、背と脚に傷を施した意味もわからぬのだ」
わからない、という言葉にショックはなかった。
生い立ちを聞かされた時にも言われた言葉だったから。
それでも、どうしてもがっかりはしてしまうわけで。
つい唇を噛むと同情するような気配が伝わってきた。
「なぁあかりよ。この国の遠い北、そして南の地にはな、女に刺青を施す習わしがあるのだそうだ」
「刺青を?」
お猪口をあおった少女に新しいお酒をお酌する。
彼女はそれを受けて一口飲み、それから優しい笑みを浮かべた。
「あぁ。それは通過儀礼の証であったり魔除けであったりするそうだ」
「へぇ……そうなんですね」
「マキエはまだ幼いおぬしの着物に必ず背守りを縫ったものだが……。その焼印も案外そういう類いのものやもしれぬぞ」
背守り――幼児の着物の背中に施す魔除けの刺繍だ。わたしもお母さんからいろんな型を教わっている。
もしこの背中の印がそういうものであったとしたら、わたしは実の親から愛情をもらっていたといえるかもしれない。
でも、仮にそうだとしても……それはそれで素直に喜べることじゃない。
「この言葉では駄目か」
姫様が困ったように小さく笑う。
わたしも笑おうとして、でも、うまく笑えなかった。




