第145話 杓文字が無い
母が亡くなって以降、蓮華はヒトの欠点や弱い所ばかりに目を向けてしまうようになっていた。規律を鬱陶しく思い、自分にとって都合の悪い考え方を排除した。
気持ちを誰かに理解してもらいたいと密かに想い、その一方で、誰にも理解できるものかと考えていた。
命は大切だと痛切に想う反面、それを活かす意志が薄弱だった。
蓮華は、そういった両面感情の合間でゆらゆらと揺れ続けた。その不安定さはまるで意思を持つかのように、蓮華の魂を徐々に蝕み、悪に染めようとしていた。
蓮華を破滅から遠ざけてくれていたのは、まぎれもなく、蘇芳だった。彼は、真心を込めて蓮華と真正面から向き合い、必死になって彼女を不幸にすまいと奮闘していた。
蓮華は蘇芳に感謝しなければと頭では分かっていたが、錆びついた心は彼との間に壁を作っていた。正彩寺での毎朝の座禅で、蓮華は自分が邪悪になりつつあることを自覚した。しかし、そんな自分の有り様を知って、変わろうという意欲は湧いてこなかった。
蓮華は正彩寺の宿坊に戻り、夕食の支度を始めた。米を少量の水で研いだ後、釜で炊いた。
操舵がやって来て、炊事場に面している床の間の座布団の上に腰を下ろした。彼は無口で、蓮華は彼と雑談したことは一度も無かった。いつもなら、この時間帯は経を唱えているはずなのにと蓮華は疑問に思った。操舵は何をするわけでもなく、無言のまま、どこか一点を見つめている様子だった。
蓮華は法蓮草をさっと茹で、流水で冷やして根元から水を絞り、丁度良い大きさに切って浅く敷いた醤油に漬け、さらにそれを絞った。
水を火にかけ、さいの目にした豆腐と水で戻したワカメを入れ、一度火から外して辛口の米味噌を溶き、弱火で温め味噌汁を作った。
突然、操舵は静かな声で蓮華に声を掛けた。
「蓮華さんの作る味噌汁はとても香りが良い。いつも、ありがとう。」
蓮華は驚いて操舵を振り返り、謙遜した。操舵は再び、沈黙の渦の中に身を置いた。
蓮華は、可笑しなヒトだなと思いつつ、ありがとうの言葉でほんの僅かだが、心が軽くなったような気がした。
沢庵を糠から取り出して、ざくざくと切った。乾燥した椎茸を水で戻して水気を拭い、浅く斜めに切り目を入れて醤油をたらし、直火で焦げ付かないよう慎重に焼いた。
米が炊き上がり、蓮華は茶碗を用意した。そろそろ、貝扇と伎倆も来る頃だ。そこで、蓮華の手がぴたりと止まった。
「杓文字が無い。」




