第144話 お母ちゃんの元へ連れてって
ツツジが咲き乱れ、サツキの花が顔を出し、さらに時間が経過して、青と赤の紫陽花が満開を迎える初夏に、蓮華はエゾクロテンを野生へ帰すことに決めた。
別れの日は朝から気温が高く、境内の掃除を終えた頃には、蓮華の背中は汗で服の色が濃く染まっていた。エゾクロテンの旅立ちには三人の僧も立ち会った。四人と一匹は伽藍を出て白樺の林の入口までゆっくりと歩いた。蓮華は腕の中で丸く抱き上げていたエゾクロテンをそっと大地に放した。
「お別れだよ。今まで私と一緒にいてくれて、どうもありがとう。私が過去を思い出して、お月様みたいに呆然としている時、前足で私の足をかりかりしてくれてありがとう。私は君のことが大好きだったよ。たっぷりと天日干ししたお布団から漂う太陽の香りくらいにね。」
エゾクロテンは、米を炊く重い釜のように微動だにせず、ひとしきりに蓮華の目を見つめた後、林の中へと消えて行った。
その日、蓮華はいつものように伎倆に剣を教わった。そして、林檎を齧って、太陽が焼いた熱い大地を駆けた。
蓮華は走る時、あらゆる感覚を研ぎ澄ました。風に揺れる枝葉や倒木の裏に生物が隠れていないか、流れる雲の中に怪しい影が潜んでいないか、辺りをくまなく観察した。
しかし、エゾクロテンと別れた日の蓮華に集中力と緊張感はみられなかった。気付かない内に、体のあちこちに擦り傷が付いていた程であった。
走るのを終え、羂索の鍛錬に入った。この半年の間に、蓮華は魔力を通じて不空羂索を意のままに操れるようになっていた。不空羂索の長さは両手を広げた長さの三十倍はあった。普段は黒色の衣の中に留めておき、必要な時に先を衣の袖から少し出して掌で掴み、魔力を練って、それを杖の代わりとして魔法を発動させた。
また、不空羂索を両腕の袖から全て出し切って、二本の鞭のように振り、それを攻撃の要として考えていた。不空羂索に風や火の魔力を練り込み、さらにそれを武器として扱うことによって、強大な衝撃と熱波をもたらした。
しかし、この日の心ここに在らずの蓮華にとって、この強力な武器を扱うには危険を伴った。手元のささいな操作に失敗し、反動で戻ってきた不空羂索が蓮華の脇腹に直撃した。蓮華は後方に吹き飛んで、仰向けに倒れた。
「痛すぎる。我ながら強烈だな。これで攻撃される者は気の毒だよ。」
蓮華はごろりと横向きになり夏の空に浮かぶ入道雲を眺めた。それは、燃料をたっぷりと積んだ巨大な乗り物のように思えた。
「雲さん。おっきな雲さん。私を、お母ちゃんの元へ連れてって。他には、何も望まないから。」
横向きに寝転んでいるからだろうか。すっと涙が零れた。
「もう嫌だ。お母ちゃんのいない世界で生きるのはしんどいよ。お母ちゃん。お母ちゃん。お母ちゃん。」




