第141話 正彩寺の僧
夕日が空を赤く染める時刻に、蓮華は寺院に辿り着いた。中門の前に立ち、ひとしきり仁王像を眺めた後、伽藍に入った。五重塔の前で蓮華はそっと小物入れの蓋を開けた。
「ほら、ご覧。こんなに不思議な塔、私は初めて見たよ。窓が無いね。上へ登る階段はとても急じゃないかな。何のための建物なんだろうね。」
生物は弱々しくじっと蓮華を見つめて、塔には目を向けなかった。蓮華は小物入れに蓋をして、金堂に向かった。数段の階段を登り、戸をこんこんと叩いて挨拶した。しかし、返事はなく、蓮華は思い切って静かに戸を開けた。
金堂の中に人はおらず、釈迦三尊像が厳かに在った。釈迦如来坐像、白象に乗った普賢菩薩、獅子に乗った文殊菩薩を見て、蓮華は目を見張り、口をぽかんと開けて、痛みと疲れを忘れた。
あまりに神々しかった。赤子から老人に至るまでの人の移り変わりと時の流れ、無限に広がる深遠な宇宙を蓮華に想起させた。蓮華にはそれらの仏像が、今にも動き出しそうに見え、動いているようにも見え、語りかけてくるかのようにも感じられた。まるで、仏像があらゆる感覚を有しており、全ての事象を把握しているかのように蓮華には思えた。
「どちら様でしょうか?」
心が宙に浮いて、蓮華は声を掛けられるまで背後にいるヒトの気配を感じられずにいた。蓮華が振り返ると、そこには袈裟を纏った短髪の僧侶がいた。
「私はこの正彩寺の僧、貝扇と申します。」
蓮華は貝扇の瞳に不思議な揺らぎを感じた。それは水の流れのようであり、熱い日の陽炎のようでもあった。風鈴の音の振動のようであり、不規則に降る雨のようでもあった。蓮華は正直に返答した。
「私はメレリンクアティスから参りました蓮華と申します。雪原で遭難してしまいました。」
「それは大変でしたでしょう。怪我をしておりますね。すぐ手当をいたしましょう。」
「ありがとうございます。でも、その前にこの子を助けていただけないでしょうか。」
蓮華は小物入れの蓋を開けて、貝扇に中を見せた。
「おや。これは珍しい。」
貝扇は伽藍を出て蓮華を宿坊に連れて行き、小さな生物と蓮華を手当てした。
その所作は見事な程に無駄がなく、丁寧で、隙間なく積み上げられた石垣のように緻密であった。蓮華の傷が遭難により負ったものではないことが貝扇には一目で分かったが、彼は何も尋ねなかった。蓮華は貝扇に質問した。
「何故、どこの誰とも分からない私の傷を癒してくれるのですか?」
貝扇は答えた。
「昔、私は貧しく、道端で倒れてしまったことがありました。襤褸を纏い、ひどく痩せ、身体のあちこちに膿が溜まっておりました。通りを行く人々は皆、私に無関心でした。その時、一人の人物が私の元にやって来られました。その方は私を抱き起こし、真っ白な手ぬぐいで私の体を綺麗に拭いて下さいました。私は、今のあなたのように、何故自分を助けてくれるのかと問いました。すると、その方は私にこうおっしゃったのです。『それは、あなたを愛しているからです』と。」
貝扇は一呼吸おいて、続けて言った。
「残念ながら、私はその方のように立派ではございません。しかし、私は、以前の自分のように苦難に苛まれている方がいらっしゃれば、手を差し伸べると決めたのです。人生は自分がどういった意志を持ち、どのように選択するかの一連の積み重ねによって成り立ちます。それには、特別な知識や技術は必要ありません。全ては自分次第です。自分の人生なのですから。私は、私を助けて下さった方から学びました。意志と選択こそが力です。」
蓮華はしばらく貝扇の述べたことについて考えた。この時の貝扇の話は蓮華の脳裏に強く焼き付き、蓮華は生涯忘れることはなかった。




