第140話 雪の中の小さな命
いくつもの山を越えた所で、景色は白銀へと変わった。切り付けられた腹と、火傷した両腕がずきずきと痛みを発し、蓮華の集中力を途切れさせた。蓮華は不時着するように雪原に落ち、うつ伏せで雪の上に埋もれるように滑った後、肩から一回転して横向きになり、勢いよくごろごろと回転しながらようやく止まった。
全身は心拍に合わせてどくどくと波打ち、荒い息づかいが喉をからからにさせた。蓮華は苦悶の表情を浮かべながら、雪原の中で主のように屹立する一本の大きな白樺の木まで匍匐前進し、幹に背をあずけた。
蓮華は腹の傷を確認し、呻き声を漏らして、腰のベルトに取り付けていた小物入れから丸い金属の小箱を取り出した。蓋を開け、左手の指でねっとりとした軟膏をすくい取り、傷口に塗り付けた。その後、火傷した両手をしばらく雪の中に入れ、冷やしすぎない程度で取り出した。
敵は追ってくるだろうか、雪原の獣に襲われないだろうか、天候は悪化しないだろうか、ここは何処なんだろうか、考えなくてはならいことがいくつもあり、だからこそ蓮華は難しいことを考えるのを止めた。
上空から、雪原の西に五重塔が見え、とにかくそこまで行くことに決めた。一本の巨木とは別に白樺の林が蓮華の右手側に広がっており、それに沿って蓮華はゆっくりと歩き始めた。雪は深く、ずぼずぼと足が沈んで、蓮華は何度も前倒しになった。
そして、何度か倒れた後、起き上がらずに、このまま眠ってしまいたい衝動にかられた。雪上で、耳に硬い金属が触れた。それは蓮華の耳を飾るイヤリングの感触であり、白金の鎖の先に蝶の形をした金属が付いていた。
蝶は鎖と同じ白金で縁取られ、羽の外側は鴇色、内側は露草色で彩られていた。もちろん、それは蓮華の母の形見のイヤリングであった。
「お母ちゃん。」
蓮華はそっと呟いて、母を想い、両腕に力を込めて起き上がった。
その時、白樺の林の中でわずかな魔力を感じた。気、生命の波動、末那、オーラ、神通力、呼び方は様々だか、蓮華はその全てを魔力と表現した。とても弱々しく、今にも消え失せてしまいそうな魔力に強く惹きつけられ、林の中に入った。
蓮華が感じた魔力の元に、一匹の小さな生物が口を開けて倒れていた。その生物は全身が白色の毛で覆われており、四肢の先と尾に黒味を帯びていた。
「どうしたの、君。お母ちゃんと逸れたの?おぉい。」
蓮華が背中をさすると、その生物は目線を蓮華に向けたが、起き上がる体力はなさそうだった。
「お母ちゃんがいなくなる苦しさは私にも分かるから、特別に君を助けてあげよう。」
蓮華は火傷した両手を合わせて雪をすくい、慎重に火の魔力を練り、雪を溶かして人肌程度に温めた。それをそっと生物の口に入れてやった。生物はわずかに舌を動かしてぬるま湯を飲んだ。蓮華は軽食用の小物入れから干し葡萄と胡桃をいくつか取り出した。生物はくちゃくちゃ、ぽりぽりと音を立ててそれらを食べた。
「君は何て言う生き物なんだろうね。図鑑で見たことない。見たことあっても覚えてないだけなのかな。オコジョに似てるけど、少し違う。オコジョと犬か狸の合いの子みたいな感じだね。」
じっと生物は蓮華を見つめた。蓮華は生物の体を優しく持ち上げて、小物入れの空いたスペースに入れた。
「大丈夫。君を焼き肉とかお刺身とか天ぷらにして食べたりしないから。たぶん。大人しく入っていてね。」
蓮華が白樺の林を出ると、太陽の光を反射した雪が眩しく、腕でさっと視界を覆った。蓮華はゆっくりと腕を下ろし視界を広げた。純白と濃厚な青色を背景に、優しい風が木々に積もった雪の結晶を空中へと運び、それが星のようにきらきらと瞬いた。
ひときわ大きいあの白樺は、往々の歴史を蓄積し、種々の記憶を貯留して、善意も無く、悪意も無く、世界に溶け込んでいた。
遠方には標高の高い山脈が聳え立っており、その山々があらゆる音を吸収することで、辺り一帯に沈黙をもたらしているかのようであった。
生命にとっては寒く厳しい環境であるが、景色の全てが静謐に包まれて穏やかであった。




