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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
元寇はなぜ神風によって勝たなければならなかったの?
24/24

『神風思想』の起こった背景は何? 5

今回は演出として少し強い言葉を使っています。そのため、読む際に抵抗を感じられるかもしれません。最後にフォローを入れておきますので、とりあえずラストまで目を通していただければありがたいです。

 源頼朝とともに鎌倉幕府を興した立役者、北条時政。

 彼は、初代将軍である頼朝のしゅうとであり、また二代将軍の源頼家(よりいえ)や三代将軍の源実朝(さねとも)の祖父でもありました。この近親関係から見ると、時政にとって頼朝の権勢が続くことは、自らの安泰のためにも、ベストの環境だったのではないでしょうか。

 にも関わらず、時政には頼朝を始めとする『源氏』を盛り立てていこうという雰囲気が見られません。烏帽子子である曽我時致が頼朝を襲撃したり、また同じ『富士の巻狩り』の最中にはこんな不思議なエピソードもありました。ちょっとご紹介しますね。


 鎌倉幕府の威光を朝廷に見せつけることによって幕府の永続を確たるものにしようとした、富士の巻狩りのイベント。これは、当時の将軍だった頼朝にとってのみではなく、その後に続くはずの後継者たちにも大きな意味がありました。

『巻狩り』というのは、狩りという行為を通して『一人前の武士となったことを神に認めてもらう神事』でもあります。頼朝は、このとき、一二歳になる長男『頼家』を連れて参加していました。そして頼家は、周囲の期待に違わず『人生初の鹿狩り』を達成するのです。

 幼い息子がまさに『神の下で』『武人としての功績を収めた』こと。頼朝は、これを『神が我が子の頼家を次期将軍にすることを許可してくれた』と考え、大喜びしたそうです。少し親バカですが、いいお父さんですよね。

 けれど、この知らせを受けた頼家の母『北条政子』は、白けた調子で「武士の子なんだから当たり前でしょ? そんなことで大騒ぎしないで」と返したそうです。

 吾妻鏡に書かれたこのエピソードについて、現在の仮説は「政子には武士のしきたりや考え方が理解できなかった」としています。……が、それはどうでしょうか? たしかに、女性である政子に『巻狩り』の意味を正確に把握することは難しかったかもしれません。でも、自分の子どもが初めての大役を果たしたのです。母であるなら、舞台は関係なく、そこは喜ぶものではないのかな。

 政子のこの冷淡な対応。実は、のちに頼家は『父が将軍、祖父が将軍に次ぐ実力者』という華々しい出自とは裏腹に、とても悲劇的な人生を送るのです。詳しくは後述にて。だから、政子のこのときの態度は、私には、頼家の壊滅的な将来を暗示しているようにも思えてしまうのですね。


 我が子の頼家に対してなんとなく壁を作っているような、政子の態度。

 そして、自らの周囲の人間に頼朝の危機を形作らせていた、時政の行動。

 彼らが頼朝、頼家に害をなそうとしたという確定的な根拠はありません。ただ、私の目には、初めて確立した武士政権に沸き立つ鎌倉幕府の中で、彼らだけが別の方向を向いていたように見えてしかたがないのです。長い貴族政治から開放された武士たちが、自分の力でのし上がることを許された武家社会。源氏という棟梁の下で、命を賭けて幕府という組織に『奉公』し、家族の生活の保障という『御恩』をもらう実力主義の制度。このシステムの中で、北条氏は、でもそれに従おうとしなかった。執権として彼らがのちのちに行った政治は、まさに貴族政治と同じく『親族という縁に依存した非実力社会の構築』だったのです。

 せっかく貴族政治を排して武士の世の中にしたというのに、その一番の立役者とも言える北条氏が『武士のやり方』を実践しなかったのはなぜなんでしょうか? 彼らは『何のために』頼朝を担ぎだして源平合戦を起こさせたのでしょうか?


 前置きが長くなりましたが、ここからやっと、前回の最後に提示した『北条時政はなぜここまで幕府を手中にしようと執着したのか』という疑問の解明に移りたいと思います。お待たせしてすみません。


 平安時代末期に起こった源平合戦。当時、権勢を振るっていたのは、京都にいた平清盛たいらのきよもりでした。彼は、天皇や貴族の内乱に乗じて手柄を立て、太政大臣だじょうだいじん(武士として最高の官位。『太政大臣』『摂政・関白』『征夷大将軍』の三つがそれに当たります)にまで上りつめます。そして『平家にあらずんば人にあらず』(※一)の言葉に代表されるように、天皇に対しても非礼を働くようになったのです。

 源平合戦のきっかけは、この清盛のやり方に反発した『以仁王もちひとおう』が挙兵したことでした。この人は『高倉天皇』という天皇のお兄さん。お兄さんなのに、清盛の策略で弟に皇位を譲る羽目になったのですね。しかも、高倉天皇のあとに即位したのは、清盛の孫でまだ一歳だった安徳天皇。これでは怒るのも無理はない。

 以仁王は、けれど決起して二ヶ月もしないうちに敗死します。ただ、彼の『平家打倒』の無念の意志は全国に飛び火していきました。それに乗っかったのが源頼朝。「これ以上、平家の横暴を許してなるものか!」ってね。そして後押ししたのが北条時政。

 以仁王の令旨りょうじ(皇太子が民衆に出す命令書)(※二)を受けて立ち上がった武士は頼朝だけではありませんでした。そんな中で、頼朝が特に注目を集めた理由。これは推測ですが、名門『河内かわち源氏』の直系であったことと、以仁王とともに戦ったのが『源頼政みなもとのよりまさ』だったことが大きかったんじゃないかと思うのです。源頼政という人は、頼朝と祖先を同じくする、源氏の名士でした。だから、平家の強いた圧政に苦しむ民衆にとっては『助けてくれるのはいつも源氏』という、わかりやすい風聞がまかり通っていたのではないかしら。

 そんなわけで、頼朝は『源氏』という名前を背負って清盛と対峙しました。源氏の頼朝と平家の清盛。私たちの多くが、源平合戦のことを『源vs平』の戦いだと認識しているのはこのためなのです。


 ところが。


 実際に戦った勢力図を見てみると、源氏は源氏だけで結束したわけではありません。代表的なメンバーをご紹介します。

 まず、源平合戦といえば『源義経』を忘れてはならないでしょう。この人はもちろん源氏です。頼朝の弟さんですね。

 ではその他の有名な武将といえば。

 熊谷直実くまがいなおざね(『平家物語』で平敦盛たいらのあつもりと一騎打ちした厚情の武人)。

 梶原景時かじわらかげとき(合戦後に義経の悪口を頼朝に吹き込んで兄弟を不仲にさせた『大悪人』)。

 千葉常胤ちばつねたね(源平合戦初戦で敗退した頼朝の立て直しをバックアップした忠臣)。

 このあたりはゲームや地元の昔話などで聞いたことのある読者もいるんじゃないかな。平家物語(類本や異本を含む)の中でも華やかに取り上げられている人たちですね。

 実はこのお三方、所属していた氏族は、源氏ではなく『平氏』なのです。他にも、頼朝の信任の厚かった『上総介広常かずさのすけひろつね』、最初は平家家臣であったのに合戦のさなかに頼朝に臣従した『畠山重忠はたけやましげただ』も、みんな平氏。

 そう。『源平合戦』は、正確には『源氏vs平氏』の戦いではなく『源氏&平氏vs平家』の争いなのです。


 ここでちょっと言葉の説明を。

 いま、私は『平氏』と『平家』という語句を使い分けました。『平氏』というのは、大雑把に言うと、平安京を作った『桓武天皇』に由来する武士集団のことです。だから、この氏族は、ほぼみんな『桓武平氏』と呼ばれています。一方で『平家』は平清盛の親族です。平氏に比べるととてもこじんまりとした一団です。

 あ。ただ、こういう言い方をしてしまうと「なんだ。じゃあ平家なんて小さい団体が源氏&平氏の連合軍に勝てるわけなかったんじゃないか。源平合戦の結果は最初から目に見えていたんだな」と誤解されるかも。源平合戦当時、頼朝が集めた武将たちの領地は愛知・静岡・神奈川・東京・埼玉。対して平家の陣地は兵庫以西の本州・四国全土・福岡・大分・鹿児島の一部。圧倒的に平家の所領のほうが大きいです。


 『源平合戦』という語感が、まるで源氏と平家のみの戦いを示唆しているように見えてしまうことから、最近ではこの戦いのことは、起こった時代の元号を用いて『治承ちしょう寿永じゅえいの乱』と呼ばれるようになりました。でも、あんまり一般的ではないですよね、これ。だから、私自身は、よその方に話をするときには『源平合戦』の呼称を使わせていただいています。

 歴史は習った年代によって認識が変わるもの。長く使用された通称は幅広い人々に支持されますので、そのメリットを捨てることはないかな、と。

 余談ですが、室町時代の始まりを『足利尊氏あしかがたかうじが京都に幕府を開いた年(一三三六~一三三八)』とするか『足利義満(よしみつ)が南北朝を統一した年(一三九二)』とするかという議論が、近年、ずっと決着を見ないまま続いています。でも、個人的には、私はこのような議論自体が『歴史への入門を難解にする専門家の悪い癖』だと思っています。『室町時代は足利家が将軍職を受け持った時代』『源平合戦は源頼朝と平清盛が争った戦』。単純明快なセオリーをまず頭に入れていただいて、そこから「でもね、実際はね」と応用していくのが、理解を易くする早道なのではないかしら。


 というところで話を戻します。

 源平合戦で源氏についた武士の中に、多くの平氏が混ざっていたこと。彼らはなぜ、平氏でありながら、同門の『平家』を攻撃したのでしょうか?

 前述したように、当時の平家は、強大な勢力を盾に、看過できないおごりを見せていました。史料の不足により断定はできないのですが、おそらく、それは自らの一族である『平家ではない平氏』に対しても発露されていたのでしょう。

 だから、平氏は『源氏に追従して身内に刃を向けた』わけではなく、『自分自身の私憤により』平家打倒に傾いていったのだと推測します。

 ここ、わかりにくいので、少し細かくご説明しますね。


 平安時代の後期、武士として力を持っていたのは源氏のほうでした。彼らは主に関東を拠点として『他勢力=関東にいた平氏』を淘汰していきます。

 源氏の攻撃に屈した関東の平氏(以降『関東平氏』と呼びます)たちは、次々に源氏に臣従するようになりました。そうしなければ生き残っていけなかったからね。つまり、関東では、源平合戦以前から『源氏&関東平氏』のタッグが組まれていたのです。

 ところがここにイレギュラーな勢力が発生します。伊勢を拠点とした小さな軍団、伊勢平氏。彼らは、度重なる源氏の圧力にも耐えて、平氏としての体面を保ち続けました。そして、とうとう『平清盛の太政大臣就任』という『武士の頂点』を極めたのです。

 仲間の関東平氏が源氏におもねっていく中、平氏の間でもほぼ最下層の身分に位置していた弱小の伊勢平氏が単独で抵抗を続けたこと。みなさんは、彼らの立場をどうお感じになるでしょうか。私は、伊勢平氏は常に恐怖に駆られた生活を余儀なくされていただろう、と予想します。源氏がすべての武士を統括するのは時間の問題だったでしょう。その流れにどこまで抵抗できるのか、最後まで降伏しなかった場合に自分たちはどうなるのか、と。

 だから、清盛の成功は、伊勢平氏にとっては『調子に乗ってもしかたがないほどの悲願』だったと思われるのです。そして、その後の舞い上がった伊勢平氏が『大した努力もせずに源氏に屈した関東平氏』に対して辛辣な態度を取ったであろうことも、想像に難くないのですね。


 さて、では一方で、関東平氏は当時の情勢をどう見ていたか。

 伊勢平氏に比べて、あっさりと源氏に敗けた感のある彼ら。けれども、もちろんそんなことはありませんでした。関東平氏は伊勢平氏よりも格式も実力もある集団。乱暴な例えをすると、関東平氏と伊勢平氏の関係は『本家と分家』の間柄に相当します。

 だったらなぜ、伊勢平氏は生き残って、関東平氏は潰されたのか。

 源氏が関東に侵攻し始めた当初、実は、伊勢平氏の祖は関東にいました。そして、他の関東平氏とともに攻撃(圧力)を受けていたのです。

 けれどそんな中、伊勢平氏は、土地に固執する関東平氏の一族から離脱して、伊勢に敗走していきます。

 当時の伊勢がどのような土地だったのかは風土記を紐解かない限り推察するしかありませんが、この伊勢平氏の移動を史料が『下向げこう(左遷)』と表現しているところから、関東よりは明らかに劣る僻地へきちだったのでしょうね。つまり、伊勢平氏は『田舎に逃げ込んだこと』により、源氏の追走を逃れた一面があるのです(※三)。

 これらを鑑みると、自然と『伊勢平氏に対する関東平氏の目線』が導き出されませんか? 関東で泣く泣く源氏に屈していた誇り高い関東平氏の前で、一門を捨ててさっさと別の土地に移ってしまった伊勢平氏。そしてその後、……伊勢平氏が落ちぶれたのならまだ関東平氏の溜飲も下がったでしょう、でも伊勢平氏は盛り返した。その上、あろうことか、かつての同門に何の救いも差し伸べなかったのです。

 以仁王が『平家打倒』の令旨を出したとき、同族の伊勢平氏を討つ時代が来たのだと知った関東平氏はどうしたでしょうか。

 ……彼らは真っ先に頼朝の元に参集したのです。


 源氏の頼朝vs平氏の清盛の対決だと言われた天下分け目の大合戦。二つの巨大軍事力の激突が招いた日本を二分する戦い。

 ……の正体は……。

 そう。『源平合戦』は、実は、関東平氏と伊勢平氏の身内争いが全国に飛び火した結果だったのです。


 では、最後に話を北条時政に戻します。

 源平合戦時に源氏にくみした勢力には関東平氏も少なからずいた、と先ほど、個々の武将の名前を上げて説明しました。では北条時政は何氏だったのか。

 ええ、彼も平氏でした。平家に私情で恨みを持っている一族です。

 源平合戦の前、頼朝が罪人として伊豆に流されてきたとき、政子と頼朝が恋仲になったことを時政が許した事実を覚えてみえるでしょうか? その際に引き合いに出した『八重姫』という女性のことも。

 わざわざ読みに戻っていただくのは申し訳がないので、ここにその引用部分を持ってきますね。


【ここから】

 ちょっと余談になりますが、この祐泰父さんの妹の『八重姫』のことも合わせて説明させてくださいな。

 このお姫さま、実は北条政子よりも先に頼朝の手がついて、頼朝の息子を生んでいる女性なのです。だから本来なら鎌倉幕府初代将軍の妻になっていてもおかしくない立場なのですが……。

 残念ながら、八重姫の父親の『伊東祐親』は、当時流刑人だった頼朝と自分の娘が通じあったことに激怒し、生まれたばかりの八重姫の子を殺してしまったのです。それも『犯罪者を処刑するときの残酷な方法』で。つまり『頼朝の子は生まれながらに罪人であるから、たとえ自分の孫だったとしても生かしておかない』と祐親は表明したんですね。何のために? もちろん、京都の朝廷の顔色をうかがったのです。

 そうやって見ると、北条時政が娘の政子と頼朝の仲を認めたのは、改めて、非常に不可解なことだったと思いませんか? 祐親というのは時政と同じく伊豆の守の役職に就いていた人です。それもかなりの実力者。その祐親が『頼朝の子どもは生かさない』という前例を作っているのに、後進の時政が『うちは二人の仲を許すよ』という行動をしているのです。

【ここまで】


 もし、このときの時政に『目障りな平家をなんとか引きずり下ろしたい』という意志があったのなら、政子と頼朝の深い関係を後押ししたことも、すんなり納得できるのではないでしょうか。

『源頼朝というネームバリュー』は、時政にとっては美味しい利用価値だったのです。


 そうして時は進み、平家は没し、頼朝の時代がやって来ました。時政の思惑どおりに。

 政子の生んだ頼家も、将軍家後継者の位置に着々と近づいていきます。

 将軍の舅として、また次期将軍の祖父としての地位を確立した時政にとっては、何もかもが順調、何もかもが狙いどおり。

 のはずでした。

 でも、彼はたった一つの誤算に気づくのです。

 実力重視の武士社会の中では、近親関係は大きな意味を持たないのだ、と。そう。執権として君臨する前の時政の幕府での扱われ方は、ただの『一家臣』に過ぎなかったのです。


 ここで一つ、みなさまにお願いがあります。

 歴史をわかりやすくする都合上、今回の考察では時政を必要以上に悪人に印象づけております。けれど、実際の彼の変遷を見ると、身分に固執することなくせっかくもらった官職を辞退したり、故郷の伊豆の統治を裸一貫からやり直そうとしたり、という質実な面が多々見られます。

 彼は、最終的には、娘の政子によって幕府から放逐ほうちくされるのですが、その理由としてあげられている『三代将軍、源実朝(時政の孫)の暗殺未遂事件』も、調べてみると史料と異なる様相を呈してきます。

 鎌倉幕府の黒幕と言われる北条時政の人物像。このようなエッセイを提供した私が言うのも矛盾しているのですが、どうか悪だとは決めつけずに、広い視野で見守ってあげてほしいのです。


 では今後の展開の予告を。

 鎌倉時代にもっとも権勢を誇った『得宗家の執権政治』。強引な手腕でのし上がっていった彼らは、数々の『罪』をその時どきに残しました。次回はそれをご紹介しながら、『元寇』の時代に歩を進めていきたいと思います。

 やっとここまでこぎつけました。みなさまには長い間お待ちいただけたこと、大変感謝いたします。


※一 この言葉は『平清盛の傲慢さを指し示している』と教えられてきましたが、実際には、清盛の妻の弟である平時忠たいらのときただが自分の権力を誇示するために放った言葉です。清盛自身は時忠を『大口を叩く困った親類』として見ていたよう。

※二 以仁王は皇位継承権から外されていたので、厳密には『令旨』という言い方はおかしいのですが、以仁王自身がこの言葉を使っているので、今回はそれに倣いました。

※三 平安時代の伊勢は『開発の遅れた土地』というデメリットとともに『伊勢神宮を掲げる特殊な場所=神郡かみのこおり』を意味づけられた地域でもありました。その点からも源氏が手を出しにくい背景があったのかもしれません。


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