第9話「直した道具が、人を傷つける」
大屋根の保守通路から地上へ戻った翌朝、谷底の空気はいつもより重く淀んでいた。
夜半に中央主幹支弁の第一ピンを抜いた影響か、上空の鉱石板を打つ雨粒の響きが、わずかに低く鈍い唸りへと変化している。
トア・レキネは作業場の入口で湿った空気を吸い込み、昨夜の泥と油にまみれた合羽を干し板へ掛けた。
指先の皮が擦り切れ、真鍮の道具を握り続けた掌には赤黒い鬱血が残っている。
「トア! 大変だ、早く来てくれ!」
坂の下から響いた青果店の主人の叫び声に、トアの肩が跳ねた。
息を切らし、膝に泥を跳ね上げた主人が、石畳の段差を滑るように駆け上がってくる。
血の巡りを失った顔面に深い皺を刻み、唇が小刻みに震えていた。
「中央市場だ! ミレの荷車が暴走した! ミレが……腕を巻き込まれて動けないんだ!」
トアの胃の腑が鉛のように重く沈み込んだ。
道具鞄を掴み取る動作に、一切のためらいはなかった。
足が勝手に動き、乾ききっていない作業靴で朝の濡れた坂道を蹴り下りていた。
中央市場の荷降ろし場は、買い出しの人々と荷運びの職人たちで幾重にも人垣ができていた。
普段なら瑞々しい野菜や香辛料の香りが漂う広場に、今は金属が摩擦で焦げた鋭い異臭が充満している。
人垣を掻き分けて飛び込んだトアの視界に、無残な光景が飛び込んできた。
以前改良を施した、あの大型の木製荷車だった。
車体は地面に接地しておらず、後輪が宙に1メートル以上も跳ね上がり、荷受け台の頑丈な青銅の手すりに斜めに突き刺さっていた。
積まれていた根菜の木箱が粉々に砕け散り、泥に混じって赤茶色の汁を撒き散らしている。
車輪の主軸に巻き付けた真鍮の補助器具から、見たこともないほど濃い青紫色の燐光が、オゾンが焦げるような鋭い刺激臭を伴って炎のように立ち上っていた。
「ミレ!」
荷車の残骸の脇で、ミレが石畳に横倒しになっていた。
顔面から血の気が失せ、脂汗が額を濡らしている。
彼女の右腕は、荷車の牽引棒と手すりの間に挟み込まれ、不自然な角度でねじ曲がっていた。
袖が引き裂かれ、露出した前腕の皮膚に赤黒いあざが広がり、骨が軋むような痛みに耐えて奥歯を噛み締めている。
「近寄るな……トア……!」
ミレが途切れ途切れの声で絞り出した。
「車輪の……浮力が……止まらないんだ……触ると、弾き飛ばされる……!」
車輪は残像すら残さず空転し、摩擦熱で真鍮の車軸が赤熱し始めていた。
弾け飛んだ木片が石畳を抉り、火花が雨粒を瞬時に蒸発させていく。
トアが組み込んだ遠心ブレーキ爪は、過剰な上向きの力によって真鍮の軸ごとねじ切られ、周囲の木枠を削りながら火花を散らしている。
車体全体が激しく震え、手すりの石材を削り取っていた。
「どいてください!」
鋭い声とともに、人混みを裂いてセナ・オルミが駆け込んできた。
外套を脱ぎ捨てた作業服姿の彼女は、手にした携帯用の測定器を荷車へ向け、即座に叫んだ。
「浮遊魔力圧、基準値の六倍を超過! なぜこんな魔力が……これじゃ車体ごと浮き上がって当然です!」
「セナ、遮断弁の回路を切れ! 俺が車軸を押さえる!」
トアは道具鞄を放り出し、泥水の中へ膝をついた。
空転する車輪から吹き荒れる風が、トアの前髪を激しく吹き上げる。
熱を帯びた青紫の燐光が皮膚を刺し、針で刺されたような痛みが走る。
トアは背負っていた青銅の捕集筒を構え、引き金を引いた。
だが、筒の吸着口を車軸へ近づけた瞬間、強烈な反発の圧力がトアの腕を打ち据えた。
骨に響く重い衝撃が走り、捕集筒の先端が弾き返される。
(吸い込めない……? 浮遊魔法の性質が違う!)
トアが組み込んだのは、パン屋で回収した微弱な力だった。
しかし今、荷車を狂わせているのは、荒々しく暴力的な、純粋な上昇の運動エネルギーだった。
命令の指定が粗雑で、停止条件すら組み込まれていない。
「トア、車輪の根元を見て!」
セナが測定器の画面を凝視しながら叫んだ。
「市場の壁にある、新設の公設充填器です! 補助配管を通じて、充填器から荷車の蓄力槽へ直接魔力が逆流しています!」
トアは視線を走らせた。
荷降ろし場の壁面に設置されていたのは、銀滴工房や地下洗濯場と同じ、白銀色の公設充填器だった。
市場の荷役作業を効率化するため、先週設備局が試験配備したばかりの最新型だ。
その充填ノズルが、荷車の補助接続口に差し込まれたまま、眩しく発光していた。
ミレは今朝、荷車を動かす前に、正規の手順に従って微量の補助魔力を補充しようとしたのだ。
その瞬間、充填器の奥から想定外の高圧魔力が逆流し、荷車の蓄力槽を一瞬で飽和させ、暴走を引き起こした。
「セナ! 充填器の元栓を落とせ!」
「駄目です、弁の操作レバーが内部融解で固着しています! 手動では落ちません!」
荷車の木枠が悲鳴を上げ、亀裂が走った。
このまま車体が破裂すれば、挟まれているミレの右腕は骨ごと砕け散る。
トアは奥歯を噛み砕くほど強く噛み締めた。
考える時間はない。
トアは腰のベルトから、最も硬い鋼で作られた解体用の平タガネと大金槌を抜き取った。
「トア、何を……」
「補助器具を叩き割る! 俺が作った道具だ、俺が壊す!」
トアは激しく暴れる荷車の真下へ、体を滑り込ませた。
跳ね上がる木片が頬を掠め、生暖かい血が滲む。
頭上では、青紫の光を噴き出す真鍮の車軸が、トアの胸元を押し潰さんばかりに迫っていた。
トアはタガネの刃先を、真鍮筒と車軸を繋ぐ固定ボルトの根元へあてがった。
目測を誤れば、自分の指を打ち砕く。
だが、その手元に迷いはなかった。
(俺の設計が甘かったんだ。外部からの逆流なんて想定していなかった。安全装置を過信して、ミレにこんなものを渡した……!)
トアは渾身の力を込め、大金槌を振り下ろした。
澄んだ金属の打撃音が、市場の騒音を突き抜けた。
タガネが真鍮のボルトに食い込み、青い火花が四散する。
二撃、三撃。
叩きつけるたびに、器具の中に溜まった魔力がトアの腕へ逆流し、激しい電撃のような痛みが走る。
感覚が麻痺し、腕が引き千切られそうになる。
「外れろ……! 外れてくれ!」
四撃目。
トアの咆哮とともに、真鍮の固定板が真っ二つに割れた。
接続を断たれた補助器具が、轟音とともに車軸から吹き飛んだ。
蓄積されていた青紫の魔力が空中で霧散し、猛烈な突風となって周囲の木箱をなぎ倒す。
上向きの力を失った荷車が、重力に従って石畳へと落ちてきた。
「今です!」
セナが飛び込み、手すりと牽引棒の隙間に鉄パイプを差し込んでテコの原理で押し広げた。
トアは荷車の下から這い出し、挟まれていたミレの体を力任せに引き抜いた。
直後、荷車の車体が石畳に叩きつけられ、前輪が粉々に砕け散った。
静寂が戻った市場の片隅で、トアは泥の中にミレを抱き起こした。
ミレの右腕は赤黒く腫れ上がり、だらりと垂れ下がっている。
呼吸は浅く、額には苦痛の汗が滲んでいたが、その琥珀色の瞳は薄く開いていた。
「……トア」
「喋るな。すぐに医者を呼ぶ。俺のせいだ、ミレ。俺が作った荷車のせいで……」
トアの声が震えていた。
手を伸ばしてミレの肩を支えようとしたが、その手のひらは泥と血で汚れ、小刻みに震えている。
ミレは歪む視界の中で、トアの泥まみれの顔を見つめ、弱々しく首を横に振った。
「ばか……お前のせいじゃ、ないよ……。今朝、充填器を繋いだとき……変な音がしたんだ。私が、無理に押し込んだから……」
「違う! 逆流を防ぐ逆止弁を、俺が組み込んでいなかったからだ! 俺の怠慢だ!」
トアが叫んだとき、ミレの手当てを終えた市場の救急員たちが担架を持って駆け寄ってきた。
ミレは担架に乗せられ、痛みに耐えながら運び出されていく。
去り際、彼女は動く左手でトアの作業着の裾を弱々しく引いた。
「……直してくれよ、トア。私の、荷車……」
トアは返答できなかった。
ただ、冷たくなっていく自分の指先を見つめ、立ち尽くすしかなかった。
◆ ◆ ◆
惨劇の痕跡が残る市場の片隅で、セナは破損した公設充填器の前に立ち尽くしていた。
手帳を開く彼女の指先もまた、微かに震えていた。
計測器が弾き出した数値は、到底信じがたい現実を示していた。
「……トア」
セナが掠れた声で呼んだ。
トアは泥だらけのまま、粉々になった真鍮器具の破片を拾い集めていた。
拾い上げる破片の冷たさが、自らの過ちを一つひとつ数え上げるように重い。
「私の責任です」
セナは手帳を胸元に抱きしめ、視線を地面に落とした。
「この荷車の安全検査を行ったのは私です。遠心ブレーキの強度と過負荷試験は実施しましたが、充填器側からの異常逆流という事態を……私は想定項目から除外していました。公設の設備から規格外の魔力が流れ込むはずがないという、設備局への過信がありました。私の検査が甘かったせいで、ミレさんを危険に晒したのです」
セナの頬を、一筋の冷たい汗が伝った。
トアは立ち上がり、真鍮の破片をポケットにねじ込んだ。
その瞳から動揺は消えていた。
代わりに宿っていたのは、暗く沈んだ、しかし逃げ場を塞がれた職人の覚悟だった。
「セナ。責任を押し付け合うのは後だ」
トアは市場の壁に並ぶ、他の公設充填器を見つめた。
青白い光が、配管の継ぎ目から不気味に明滅している。
「あの充填器は、市場だけじゃない。駅の昇降機、共同浴場の給湯器、パン屋の通りの粉挽き場……町中に何十台も配備されている。もし、他の場所でも同じ逆流が起きたらどうなる」
セナの唇がわずかに開いた。
「……大屋根の支持層の魔力圧が、限界を超えて公設配管へ溢れ出しているのよ。昨夜、私たちが中央弁を刺激したことで、管内の圧力バランスが崩れたんだわ。充填器に繋がれている道具はすべて、いつ暴走してもおかしくない爆弾と同じよ」
二人は顔を見合わせた。
もはや、自分たちの仕事の正当性を証明する段階は終わっていた。
自分たちが直した道具が、自分たちが認可した仕組みが、町の人々の日常を脅かしているのだ。
「全品、回収する」
トアは短く告げた。
「俺がこれまで町で作ってきた、残留魔法を使った道具をすべて回収する。そして、公設充填器の使用を直ちに止めさせる」
「設備局は、充填器の停止を認めないはずです。公式な事故調査の手続きには数日を要します」
「役所の判子を待っている間に、次の誰かが腕を折られる。セナ、君はどうする」
セナは唇を噛み締め、それから懐から自らの技師身分証と、緊急停止用の認可印を取り出した。
その瞳に、迷いはなかった。
「私は、担当区画の保安技師です。現場の明白な危険に対し、独断で設備を封鎖する権限が……規則の拡大解釈ですが、あります。免職と投獄を覚悟すれば、やれます」
セナは手帳に自らの署名を走り書きし、事故報告書へ認可印を叩きつけた。
「行きましょう、トア。私たちが始めたことです。私たちが終わらせなければなりません」
雨を含んだ風が、二人の作業服を激しく揺らしていた。




