第8話「父の名前が、そこにあった」
翌朝、設備局の本庁舎から戻った二人の作業場は、冷え切った空気に包まれていた。
トアは作業台の上に父ロウの手記を大きく広げ、その脇に昨夜大屋根の保守通路で書き留めた魔力圧の数値を並べて置いた。
セナは窓際の小さな丸椅子に腰掛け、鉛筆を走らせながら計算結果を整理している。
「段階的解放を行うためのバルブの配置は特定できました。ですが、中央主幹支弁のロックを解除するには、支持層の内部へ直接踏み込み、手動でピンを打ち抜く必要があります」
セナは顔を上げ、トアを見つめた。
「それは、危険すぎるわ。昨夜の時点で、中央付近の魔力圧はすでに許容値の二倍を超えている。少しでも手順を誤れば、爆風の直撃を受けることになるわ」
「危険だからといって、他の誰かに任せるわけにはいかない」
トアは道具鞄の中から新しい導魔繊維の束を取り出し、手際よく結び目を編み直していた。
「父さんがこの手記を残したのは、いつか誰かがこの尻拭いをすることを分かっていたからだ。そして、あの場所で父の残した足跡を見つけたのは、俺だ」
セナはそれ以上引き止める言葉を探すことができず、唇を軽く噛み締めてうなずいた。
作業が一段落したそのとき、作業場の扉が外から叩かれた。
開けると、息を切らせたミレ・タシュが立っていた。
彼女の亜麻色の髪は雨と汗で乱れ、その手には設備局から出されたばかりの『立入禁止および作業停止の仮処分通知』の紙が握りしめられていた。
「トア、これはいったいどういうことだい!」
ミレは紙を突きつけるようにして作業場へ踏み込んできた。
「私の工房に、設備局の役人がやってきてね。お前たちが進めている大屋根の調査計画はすべて独断の違法行為であり、直ちに作業を中止して関係者を拘束するって告げられたんだよ。ガルド局長の署名入りだってさ」
トアとセナは顔を見合わせた。
ガルドが態度を翻したのだ。
保守通路の鍵を渡しておきながら、裏では局の保身のために二人の計画を潰すつもりだったらしい。
「局長が動いたのね……。私たちが持っている支持層の危険データを公表されるのを恐れたのよ」
セナが立ち上がり、怒りを滲ませた声で言った。
「このままじゃ、私たち二人が不法侵入と設備破壊の罪で引っ張られておしまいだ。せっかく見つけた解決策も、闇に葬られるわ」
「そんな真似、させるかよ」
ミレは腕を組み、鼻を鳴らした。
「私だって、お前たちが命がけで調べていることは聞いてるんだ。それに、あの荷車のブレーキを直してくれた恩もある。役人の書類一枚で、町全体が押し潰されるのを黙って見過ごせるか」
ミレはトアの手首を掴み、力強く引っ張った。
「幸い、役人たちはまだ低層区の末端まで回ってきていない。今夜、私の荷車に機材を全部積み込んで、大屋根の東側外壁にある資材搬入口から中に滑り込む。私たちが協力すれば、ガルドの許可書なんてなくても、支弁の開放作業は始められるさ」
トアはミレのまっすぐな瞳を見つめ、それからセナとうなずき合った。
「……分かった。今夜、全員で屋根に登る」
◆ ◆ ◆
深夜。
冷たい雨が叩きつける中、大屋根の東側外壁に設けられた補修用の資材搬入口に、ミレの大型荷車が密かに横付けされていた。
荷台には、トアが用意した耐圧中和容器、セナが持ち出した最新の魔力測定器、そして大量の導魔繊維が積み上げられている。
「よし、荷物の固定は完璧だ。行くよ」
ミレが合図を出し、三人は雨合羽のフードを深く被りながら、暗い保守通路の中へと滑り込んだ。
本庁舎の警備の目を盗み、二度目の潜入となる保守通路を駆け抜ける。
前回よりもさらに青白く、不気味にうねる光の海が、頭上で重い脈動を打っていた。
空気の密度が変わり、肌がピリピリと痺れるような静電気が満ちている。
「ここが、中央主幹支弁の真下です」
セナが計器の画面を確認し、古びた青銅の床板を足元で叩いた。
「この直下に、全区画の圧力を逃がすための大弁があるわ。私の指示通りにトアがロックピンを抜き、ミレさんが中和容器の配管を接続して魔力を受け止める。手順のミスは一切許されないわよ」
「任せときな。私の荷車の車輪だって調整してきたんだ、この程度のバルブくらい確実に押さえてみせるさ」
ミレが頑丈なレンチを両手で構えた。
トアは床板の点検蓋を外し、下層の暗闇を覗き込んだ。
そこには、二十年前に父ロウが最後に触れたはずの、無数の錆びついた歯車と、青白い光を帯びた巨大な制御弁が鎮座していた。
トアが梯子を下りて制御弁の近くへ寄り、父の遺した古いロック解除キーを固定ピンの解除穴に差し込もうとした、そのときだった。
制御弁の基部に打ち込まれていた真鍮製の古い銘板に、トアのランプの光が反射した。
そこには、父の直筆でこう刻まれていた。
『ロウ・レキネ。第207次保全作業にて、支持層の限界を確認。これ以上の延命は、次世代の命を削ることになる』
父の名前が、そこにあった。
二十年前、この場所で同じ絶望と向き合い、それでも苦悩の末に後世へ託すための処置を施して去っていった父の姿が、冷たい金属の感触を通じてトアの胸を強く打った。
トアは震える指先で銘板の汚れを拭い、ロック解除キーを固定ピンの解除穴に差し込み、両手で深く握り直した。
滑る青銅の足場を靴底で削るように踏みしめ、腰に巻いた命綱が肋骨に食い込む痛みをも力に変える。
キーの柄から、大屋根全体に溜め込まれた数万トンの魔力の重みが、物理的な圧として両腕へとのしかかってくるのがわかった。
トアは息を吸い込み、全身の筋肉をバネのように弾けさせて、渾身の力でキーを捻り回した。
キィィン、と鼓膜を劈く高い金属音が通路全体に反響し、火花が散る。
二十年分の錆と呪いを解き放つように、古びたロックピンが回転しながら暗闇へと弾け飛んだ。
「ピン、抜けた!」
トアが叫んだ瞬間、頭上の光の海が歓声を上げるように一斉に輝きを増し、青白い魔力の奔流がバルブの隙間からすさまじい圧力で吹き出した。
「中和容器、接続!」
セナの叫び声に合わせ、ミレが頑丈なバルブを全開にし、トアの青銅筒と接続した管へ魔力を流し込む。
激しい熱と圧力の反動がトアの両腕を焼き尽くすかのように襲うが、彼は一歩も引かなかった。
父が残した時間を、ここで途切れさせるわけにはいかない。
トアは牙を剥く残留魔法の渦の中心を見据え、仲間たちと共に、町の未来を切り開くための最初の弁をこじ開けた。




