第10話「本日は、全部回収します」
正午を過ぎたネリヴァの町に、けたたましい非常鐘の音が鳴り響いていた。
低層区から中層区へ至る主要な通りに、セナが設備局の印刷機を無断で使用して刷り上げた、鮮やかな赤文字の警告ビラが貼り出されていく。
『緊急警告。公設充填器の全系統において異常逆流の危険あり。直ちに接続を解除し、使用を中止せよ』
トアは手押しの一輪車を押し、以前訪れた『三日月堂ベーカリー』の前に立っていた。
店先には、すでに朝の仕事を終えた店主夫婦が、不安そうな顔で立ち尽くしていた。
作業台の上には、トアがかつて手掛けた、パン生地を運ぶための木製トレイが置かれている。
「トア君……本当なのかい? 市場でミレちゃんが怪我をしたって……」
店主が痛ましそうに尋ねてきた。
「はい。俺が作った道具の安全設計が足りず、充填器からの逆流を防げませんでした。奥さん、そのトレイを回収させてください」
トアは頭を下げた。
言い訳は一切口にしなかった。
店主の妻は、トレイに触れながら悲しそうに眉を寄せた。
「でも、これのおかげで主人の腰も良くなって、毎日の仕込みが本当に助かっていたのよ。これも、危ないの?」
「はい。充填器に繋いでいなくても、大屋根からの異常波形に共鳴して、いつ急激に浮き上がるかわかりません。皆さんの安全を保障できない以上、ここに置いておくことはできません」
トアは鞄から工具を取り出し、トレイの底から真鍮の薄板を手際よく取り外した。
そして、ポケットから革の小袋を取り出し、店主の手のひらへ載せた。
「これは、以前いただいた加工代と、今後の手作業にかかる負担への補償金です。受け取ってください」
「そんな! お金なんて受け取れないよ! トア君は親切でやってくれたんじゃないか!」
「親切で済ませてはいけないんです」
トアは店主の目を真っ直ぐに見据えた。
「安全を担保できない道具を渡した時点で、俺の過失です。感情で誤魔化せば、また同じ事故を起こします。これは仕事の後始末です。受け取ってください」
店主は言葉を失い、硬い革袋の重みを受け止めるしかなかった。
トアは深く一礼し、取り外した真鍮板を一輪車へ積み込むと、次の現場へと向かった。
町のあちこちで、同じ光景が繰り返された。
第四共同住宅の暖房炉の点検口から、トアは自らが取り付けた精密ノズルを回収した。
管理人カルツは怒りを露わにし、トアの胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄った。
「また暖房を止める気か! 住民たちに何て説明すればいいんだ! あんたの腕を信じて金まで払ったのに、欠陥品だったというのか!」
「弁解の余地もありません。安全装置が外部からの異常圧に耐えられない構造でした。申し訳ありません」
トアは罵声を浴びせられながらも、決して目を逸らさず、深々と頭を下げ続けた。
そして、回収作業の工賃を一切請求せず、逆に契約解除の違約金としての銀貨を机の上に並べる。
怒鳴り散らしていたカルツも、やがて気圧されたように口を閉ざした。
「……金なんていい。とにかく、怪我人が出ないようにだけしてくれ」
「ありがとうございます。必ず、安全な形でお返しします」
一方、セナは設備局の制服を泥だらけにしながら、中層区の配電室を一人で回っていた。
彼女の手には、局長室から持ち出したマスターキーがあった。
「オルミ技師! 何をしている、勝手に基幹弁を閉じるな!」
駆けつけてきた同僚の技師たちが、セナを取り囲んで叫んだ。
「局長の許可が出ていない! こんな広域の充填系統を遮断したら、夕方の市場も駅の荷揚場も完全に麻痺するぞ! お前一人で責任を取れるのか!」
セナは同僚たちの制止を振り払い、巨大な遮断弁のレバーへ両手をかけた。
その瞳には、かつての数値を盲信していた冷たさはなく、生きた人間を守るための激しい情熱が宿っていた。
「責任なら、私の首一つで取ります!」
セナは渾身の力でレバーを押し下げた。
重い金属音が響き、配管の内部で魔力の流れが遮断される。
青白い光が管の表面から消え去っていく。
「現場で血が流れているのよ! 数字を守るために命を捨てる技術者なんて、この町には必要ありません!」
同僚たちはセナの鬼気迫る気迫に圧倒され、それ以上手を出すことができなかった。
セナは手帳に遮断時刻を記録し、息を整えながら次の配電室へと駆け出していった。
◆ ◆ ◆
夕暮れが近づく頃、トアの一輪車は、回収された無数の魔法器具や真鍮板で山積みになっていた。
体中が軋むように痛み、作業着の膝は擦り切れて泥が染み込んでいた。
中央市場の広場へ戻ってきたトアの前に、意外な光景が広がっていた。
広場の片隅、雨よけの屋根の下に、数台の作業台が並べられていた。
そこにいたのは、三日月堂のパン屋の店主、食堂の親父、そして共同住宅の住民たちだった。
彼らはトアが回収してきた器具を受け取り、泥を拭き、安全な保管箱へと手際よく仕分けていた。
「皆さん……どうしてここに」
トアが立ち尽くすと、食堂の親父が温かい茶の入ったマグカップをトアの手へ押し付けてきた。
「どうしてって、お前さんが一人で町中を走り回って頭を下げてるのを見たら、黙っていられるわけがないだろう」
「ですが、俺は皆さんを危険に晒したんです。信用を失って当然なのに……」
「信用なんてものはな、一回失ったくらいで全部消えるもんじゃないよ」
パン屋の店主が、煤けたトレイを磨きながら笑った。
「あんたは逃げなかった。金を返して、頭を下げて、泥を被って全部回収して回った。だったら、俺たちも手伝うのが筋ってもんだろうが。道具が悪かったんじゃない、町の配管が狂っていたんだ」
住民たちの温かい手が、トアの冷え切った指先を包み込んだ。
そこへ、息を切らせたセナが駆け込んできた。
彼女の制服は破れ、黒髪は乱れていたが、その手には担当全区画の遮断完了の記録が握られていた。
「トア……低層区および中層区の公設充填器、全四十二箇所、完全に停止させました」
セナが安堵の息を漏らした、そのときだった。
広場の中央に積み上げられていた、回収器具の山から、異様な共鳴音が立ち上った。
耐圧箱の中に隔離されていた真鍮板や捕集筒が一斉に青白く発光し、激しい振動を始めたのだ。
トアとセナが駆け寄ると、箱の隙間から漏れ出る光は、もはや個別の魔法の性質を失っていた。
すべての器具が、同じ方向――頭上を覆う大屋根の中央部を指し示して、狂ったようにエネルギーを放出していた。
空を見上げると、大屋根の鉱石板の裏側に広がる青白い光の海が、網膜に焼き付くような毒々しい色相で脈打ち、かつてない規模で波打っていた。
公設配管という逃げ場を塞がれた余剰魔法が、行き場を失い、屋根の主骨組みへと直接圧力をかけ始めていたのだ。
ギィィィ……と、谷間に響き渡る巨大な金属の軋み音。
それは、大屋根が自重と魔力圧に耐えかねて、悲鳴を上げている音だった。
「屋根の支持魔法が……崩壊を始めている」
セナが呟いた瞬間、谷底の町全体を揺るがすような、重い地鳴りが足元を駆け抜けていった。




