第11話「一人で直すな」
設備局の地下にある中央計算室は、張り詰めた沈黙と油煙の臭気に支配されていた。
四方の壁を埋め尽くす木製の本棚には、ネリヴァの町が築かれて以来の配管台帳と気象記録が隙間なく並んでいる。
部屋の中央に置かれた長い樫の作業机の上には、数十枚に及ぶ計算用紙が散乱し、そのすべてに黒と赤のインクで数式が書き殴られていた。
セナ・オルミは、机の上に両手をつき、乱れた呼吸を整えようとしていた。
濃紺の作業服の袖は捲り上げられ、白かった袖口は黒いインクで無残に汚れている。
彼女の手指は、真鍮の計算尺を握りしめたまま小刻みに震えていた。
卓上の石油ランプが放つ熱気が、額に滲む冷たい汗をじりじりと炙っている。
「……合わない」
掠れた声が、インクの乾く匂いの中に落ちた。
「どう計算し直しても、解が出ないのよ。大屋根の支持層に溜まった残留魔法の総量は、推定で四万キュービックを超えているわ。これを既存の地上処理施設へ一括して引き抜こうとすれば、受入管の熱容量が三秒で限界を迎える。管が破裂して、低層区に魔力の奔流が雪崩れ込むわ」
セナは机の端にあった計算尺を乱暴に叩き落とし、両手で頭を抱え込んだ。
一本に束ねていた黒髪が解け、力なく俯いた頬に重く垂れ下がっている。
「短時間で処理する方法なんて、どこにも存在しない。私がこれまで信じてきた計算式も、設備局の安全基準も、全部破綻しているのよ。どうすればいいの……何を引いても、何を足しても、答えがゼロにならないのよ……!」
彼女の指先が、羊皮紙の端をくしゃりと握り潰した。
トア・レキネは、散らばる書類を踏まないように歩み寄り、床に落ちた計算尺を静かに拾い上げた。
真鍮の角に刻まれた目盛りには、セナが何百回、何千回と指を滑らせてきた摩耗の痕跡があった。
トアはそれを机の端に置き、自分の道具鞄から革手袋を取り出した。
「セナ。もう計算はやめろ」
トアの静かな声に、セナが濡れた瞳を吊り上げて顔を上げた。
「やめるわけにはいかないでしょう! 私が解を出さなければ、今夜にも屋根が落ちてくるのよ! 町が押し潰されるのよ!」
「机の上で解けないなら、現場でやるしかない」
トアは手袋をはめ、手首の革紐を歯で噛んで強く締め上げた。
その双眸には、暗く冷たい決意が据えられていた。
「俺がもう一度、屋根の保守通路へ登る。中央主幹支弁の点検口から、直接支持層の内部へ体を滑り込ませる」
「何を言っているの……! 内部の魔力圧は、人間が生身で耐えられる数値を遥かに超えているわ!」
「耐えられなくても、弁の固着を現場で外すことはできる。俺の持っている一番太い青銅筒で、弁の根元の魔法圧を直接自分の体へ引き受けるんだ。俺の器具と体が吹き飛ぶまでの数秒間があれば、主弁を手動で叩き落とせる。弁が閉じれば、少なくとも今夜の崩落だけは先延ばしにできる」
「そんなの、ただの自殺よ! 絶対に認めません!」
セナが立ち上がり、トアの胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。
だが、トアはその手を受け止め、静かに握り返した。
「誰かがやらなきゃならないなら、俺がやるべきだ。父さんが始めたことだし、俺自身も道具の安全確認を怠ってミレを怪我させた。俺の命一つで町が保つなら、一番割に合う後始末だ」
トアの口調は淡々としていた。
「割に合うわけがないだろうが、この大ばか野郎!」
張り詰めた計算室の空気を叩き割るように、重い罵声が響き渡った。
トアとセナが弾かれたように扉を振り返る。
開け放たれた木扉の枠に寄りかかるようにして、一人の女性が立っていた。
亜麻色の髪を額に張り付かせ、荒い息を吐いている。
その右腕は、白い三角巾で固く胸元に吊り上げられていた。
市場で負傷したはずのミレ・タシュだった。
「ミレ……! どうしてここへ……病院の寝台にいるはずじゃ……」
無理やり鎮痛の魔法薬でも煽ってきたのか、青ざめた顔で息を荒らげるミレにトアが駆け寄ろうとした瞬間、ミレは動く左手で壁際に立てかけられていた樫のモップを掴み、その柄でトアのすねを痛烈に打ち据えた。
鈍い打撃音が室内に響き、トアはその場に片膝をついた。
「痛え……! 何するんだよ!」
「痛いのはこっちだよ! 腕一本折られた痛みに比べりゃ、そんなもん蚊に刺されたようなもんだ!」
ミレはモップの柄を床に突き立て、肩を上下させながらトアを見下ろした。
その琥珀色の瞳には、激しい怒りと、それを遥かに上回る深い悲痛が燃え盛っていた。
「聞いてりゃ呆れて物が言えないよ。自分の命で後始末をつける? 一番割に合う仕事だ? ふざけるんじゃないよ、トア・レキネ!」
ミレは一歩踏み出し、今度は机の前に立ち尽くすセナを鋭くにらみつけた。
「あんたもだよ、設備局の偉い技師さん! 部屋に閉じこもって、紙切れの上で一人で町を救う計算をして、解が出ないからって絶望してんじゃないよ! あんたたち二人は、いつからそんなに偉くなったんだい!」
セナの唇が震え、言葉を失って後退した。
「たった二人で、このネリヴァの町ぜんぶを背負えると思ってんのかい? 数十万人もの人間が暮らして、毎日飯を食って、湯を沸かして、魔法のゴミを垂れ流して生きてきた町なんだよ! それを、あんたたち二人だけで綺麗さっぱり片づけられるわけがないだろう!」
ミレの叫びが、地下の壁に反響し、トアの胸の奥深くに突き刺さった。
「トア、お前が一人で死んで屋根を一日延命させたとして、その翌日は誰が死ぬんだい? あんたが死んだあと、私の壊れた荷車は誰が直してくれるんだい! お前がやってることは職人の責任じゃない、ただの逃げだ!」
トアは床に膝をついたまま、頭を垂れた。
ミレの言葉の一言ひとことが、自らの浅はかな自己犠牲を容赦なく暴き立てていた。
誰かのために命を捨てることは、残された人々にその死の重みを背負わせることに他ならない。
セナもまた、震える手で机の縁を掴み、うつむいていた。
彼女が守ろうとしていたのは、技師としての無謬性であり、完璧な計画という幻想だった。
静まり返った計算室に、雨水が地下水路を流れる低い音が戻ってきた。
ミレは荒い息を整え、トアの前に膝をついた。
彼女は動く左手を伸ばし、トアの煤けた作業着の襟元を掴んで、自分の方へ引き寄せた。
「……一人で直すんじゃないよ」
ミレの声から刺々しさが消え、掠れた温もりが滲み出ていた。
「町じゅうの人間が、この町で生きてきたんだ。雨の恩恵を受けて、屋根の暖かさに甘えてきたんだよ。だったら、そのツケを払う痛みだって、町じゅうで分け合うのが筋ってもんだろうが」
トアは顔を上げ、ミレの顔を見た。
彼女の額には脂汗が光り、折れた右腕の激痛に耐えていることが痛いほど伝わってきた。
それでも、その瞳はまっすぐにトアを信じていた。
トアは深く息を吸い込み、立ち上がった。
足の痛みを踏みしめ、セナの待つ作業机へと歩み寄った。
「セナ」
セナがゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、自暴自棄の絶望は消え去っていた。
「全量を一度に地上へ降ろす計算は破綻している。それは分かった。……なら、屋根を分けて降ろすことはできないか」
セナがわずかに目を見張った。
「分けて、降ろす……?」
「ああ。大屋根は幾つもの鉱石板と青銅の梁で区画されている。中央主幹支弁の全開放を諦めて、区画ごとの排気弁を外周から順に開けていくんだ。一度に全部の力を抜くから管が破裂する。なら、四つの区画に分けて、四回に分けて地上へ逃がせば、地上の処理施設の受入容量に収まるんじゃないか」
セナの思考の歯車が、猛烈な速度で回転を始めた。
彼女は机の上の図面を素早く手繰り寄せ、大屋根の区画割図を広げた。
「……可能よ。大屋根は東西南北の四つの主支持ブロックに分かれている。南側の第四区画から順に圧力を逃がせば、配管の負荷は四分の一に抑えられる。……でも、トア」
セナはペンを握る手を止め、トアを凝視した。
「区画の魔法圧を抜くということは、その区画の屋根の支持力を一時的に失わせるということよ。鉱石板が自重で傾き、隙間から外の雨が町へ直接降り注ぐことになるわ。南側区画には、第三共同住宅と低層市場がある。そこが水浸しになるのよ」
「雨が降るくらい、何だって言うんだ」
ミレが横から口を挟んだ。
「家の中に雨が入るなら、鍋でも桶でも並べて受け止めりゃいい。濡れちゃ困る家財道具は、上の区画へ運べばいい。泥水くらい、後でみんなで雑巾がけすりゃ済む話だ。町が丸ごと潰れるのと、床が水浸しになるのの、どっちがマシか分からない町民なんて一人もいないよ」
トアはセナを見つめ、力強く頷いた。
「便利な暮らしを一時的に失うことを、町の人たちへ隠さずに説明しよう。安全のために不便を引き受けてくれと、頭を下げて頼むんだ。住民をただ守られるだけの客にするな。一緒に町を直す仲間にするんだ」
セナの胸の奥で、張り詰めていた何かが音を立てて解けていった。
「……分かりました。すぐに段階的開放のシーケンスを組み直します」
セナが青インクのペンを取り、計算用紙へ迷いなく式を書き込み始めた、そのときだった。
重い足音とともに、計算室の扉が外側から押し開かれた。
現れたのは、焦げ茶色の外套を着た設備局長、ガルド・エスニだった。
その背後には、数名の警備員が控えていたが、ガルドは片手を上げて彼らを部屋の外へ制止させた。
「局長……」
セナの手が止まった。
ガルドは室内を一瞥し、散らばる計算用紙と、腕を吊ったミレ、そしてトアの顔を静かに見つめた。
その表情には、朝までの威圧感はなく、深い苦渋が刻まれていた。
「市場の事故の報告は受けた。……私の判断の遅れが、民間人に怪我を負わせた。弁解の余地はない」
ガルドはゆっくりと机の前へ歩み寄り、机の上の計算式へ目を落とした。
ガルドの分厚い手が微かに震えていた。
彼は、古い隠蔽の計算式にしがみつき、いつか必ず大屋根が限界を迎えると知りながら、決断を先延ばしにしてきた。
老技師は掠れた息を吐き出し、自らの胸ポケットから一冊の黒い手帳を取り出して机の上に置いた。
表紙には設備局の最高機密印が押されていた。
「局長指示記録の原本だ。二十年前の大雨から今日に至るまで、私が独断で命じてきた残留魔法の屋根への圧入指示、処理能力不足の隠蔽、それら全ての公文書がここにある。……これを使えば、君たちは私を告発し、即座に職務停止に追い込むことができる」
セナは手帳を見つめ、それからガルドの瞳を真正面から見返した。
「告発など、後回しです。私たちは今、南側区画の段階的開放計画を立てています。屋根の一部を下げ、雨を町へ落しながら、四段階で残留魔法を地上の処理施設へ逃がす手順です」
ガルドは目を見張り、手帳の上の計算式へ再び視線を落とした。
「……屋根を開けるというのか。町へ雨を入れるなど、設備局の歴史上、一度も前例がない。住民の反発は避けられんぞ」
「前例がないからといって、現実から目を背け続けた結果がこれです!」
セナの凛とした声が響いた。
「ガルド局長。大屋根の各区画の給排弁を遠隔操作するには、局長室にある中央制御盤の最高認証鍵が必要です。私たちにその鍵を渡してください。そして、全職員へ非常配備命令を下し、現場の実務を私たちへ引き継いでください」
ガルドは沈黙した。
長年守り続けてきた町の屋根。
雨から人々を守るために築き上げた偉大な遺産が、いま自らの手によって解体されようとしている。
その痛みに、老技師の背中が小さく震えた。
トアが一歩前に出た。
「ガルド局長。父は手記に書いていました。『これ以上の延命は、次世代の命を削る』と。父もあなたも、町を守りたかったことに変わりはないはずです。なら、最後くらい、その責任を一緒に果たしてください」
ガルドは顔を上げ、トアの瞳の中に、かつて共に大屋根の骨組みを登った友――ロウ・レキネの面影を見た。
ガルドの唇がわずかに震え、やがて彼は深く、長く息を吐き出した。
首から下げていた金色の鍵を外し、ガルドはそれをセナの手のひらへと落とした。
「全責任は私が取る。……ネリヴァの空を、君たちへ託す」
その瞬間、地底の奥深くから、ゴゥンという鈍い唸りが響き渡った。
計算室の天井の石膏が、パラパラと白い粉を散らして机の上へ落ちてくる。
机の上の計器の針が、一斉に右へと振り切れた。
セナが計器をひったくるように抱え込み、画面を凝視した。
「……南側支持層の第二バイパス弁が内圧に耐えきれず破断しました! 予定より早い……屋根の南側区画が、自重で沈み始めています!」
谷底の町に、地鳴りのような金属の軋み音が鳴り響き始めた。




