第3話「安くするなら、もう直さない」
朝の光は大屋根の鉱石板を透かして届くため、ネリヴァの谷底には常に青みがかった薄明かりが沈んでいた。
トア・レキネの作業場は、急な坂道に面した石造りの長屋の一角にあった。
湿った石壁には、父の代から使い込まれた工具が革の帯に挿して並べられている。
中央の分厚い作業台の上には、昨日地下洗濯場から持ち帰った青銅の捕集器具が置かれていた。
トアは油を染み込ませた厚布を手に取り、器具の吸着ノズルを丹念に磨いた。
泥水に含まれていた細かな砂を拭い去ると、真鍮と青銅の地肌が鈍い光を取り戻す。
両腕の筋肉には、逆流する魔法を受け止めたときの痛みがまだ重く残っていた。
指先を曲げ伸ばしするたび、関節の奥がきしむような感覚を覚える。
入り口の厚い木扉が外から荒々しく叩かれた。
「トア、開けな。入るよ」
返事を待たずに真鍮の取っ手が押し下げられ、作業場の空気が外の湿った風と入れ替わった。
入ってきたのは、仕立てのいい作業着の上に頑丈な革のエプロンを着けた若い女性だった。
亜麻色の髪を頭の後ろで手際よく編み込み、手には布で包まれた細長い金属の塊を持っている。
トアの幼なじみで、荷車製造と小口配送を営む職人のミレ・タシュだった。
ミレは作業台の端へ、手にした包みを遠慮なく置いた。
布が解け、中から銀色に光る細身の金属筒が現れる。
先週、トアが研磨と精密なネジ切りを頼んでいた、微細魔法の吸引ノズルだった。
「頼まれていた吸着管の先端具だ。旋盤で溝を0.2ミリ刻みで彫り直してある。これで隙間から余分な空気を吸わずに済むはずだ」
トアは包みからノズルを取り上げ、指先でねじ山の溝をなぞった。
爪先が均等な引っかかりを感じ取り、狂いのない仕事だと教えてくれる。
「助かるよ、ミレ。いつも通りの綺麗な仕上げだ」
「綺麗かどうかはどうでもいい。それより、話がある」
ミレは作業台に両手をつき、トアの顔を真っ直ぐに見据えた。
その琥珀色の瞳には、一切の冗談を許さない厳しさが宿っていた。
「先月と先々月に回した、工具の研ぎ直しと部品交換の代金、銀貨四枚と銅貨十二枚。今日こそ払ってもらうよ」
トアの手がぴたりと止まった。
彼は視線を伏せ、作業台の引き出しから手垢で汚れた売掛帳を引っ張り出した。
表紙をめくると、依頼人の名前と請求額が並んでいる。
だが、その数字のほとんどには横線が引かれ、当初の半分以下の金額が小さく書き直されていた。
「……もう少しだけ、待ってくれないか。今週中に回収の予定が何件か入っているから」
「待たない」
ミレは短く言い切った。
「トア、お前が客から金を取らないのは勝手だ。雨漏りで困っている年寄りを見て同情するのも、パン屋の親父に端材代しか請求しないのも、お前の自由だよ。だけどね、そのしわ寄せがどこへ行っているか、少しは考えたことがあるかい」
ミレはトアの胸元を人差し指で小突いた。
「お前が使っているその工具の刃を研ぐ砥石は、タダじゃない。真鍮のネジを削り出す旋盤の油も、私が問屋から買っているんだ。お前が自分の腕を安売りするたびに、私の仕事まで安く買い叩かれているのと同じなんだよ」
「そんなつもりは……」
「結果としてそうなっているんだ。いいかい、安くするなら、もう二度とお前の道具は直さない。お前が自分の仕事に値段をつけられないなら、回収屋なんて看板は今すぐ薪にして暖炉にくべちまいな」
ミレは乱暴に言い放ちながらも、その琥珀色の瞳をわずかに揺らしていた。
トアは言い返す言葉を持たず、売掛帳の擦り切れた角を見つめるしかなかった。
父が死んでから五年間、トアは町の人々に頼まれるがまま、危険な現場へ飛び込んできた。
困っている顔を見れば、正当な工賃を口にすることが卑しいことのように思えてならなかった。
だが、その自己満足の裏で、幼なじみの善意に甘え続けていた事実に、胸の奥が冷たく締め付けられる。
重苦しい沈黙が作業場を満たしたとき、開け放たれた扉から別の足音が響いた。
「失礼します。昨日の現場報告書の控受領に参りました」
現れたのは、設備局の濃紺の外套をまとったセナ・オルミだった。
昨日の泥汚れはきれいに落とされ、乱れていた黒髪も隙なく一本に束ね直されている。
彼女は手に持った書類挟みから顔を上げ、トアとミレの間に漂う険悪な空気を敏感に察知して足を止めた。
「……何か取り込み中でしたか」
「ううん、ちょうど終わったところ。回収屋先生に、商売の初歩を教えていたのさ」
ミレは皮肉っぽく笑い、腕を組んだ。
セナは二人の様子を一瞥し、それから作業台の上に開かれた売掛帳へ視線を落とした。
数字の羅列と無数の訂正線を瞬時に読み取った彼女は、小さく眉を寄せた。
「酷い帳簿ですね。費用の内訳がまったく記載されていない。これでは資材の減価償却すら計算できないでしょう」
「オルミ技師、あんたからも言ってやってくれ。こいつは客の言い値で仕事を引き受けて、道具の維持費すら残さないんだ」
トアが二人の視線に居心地悪そうに身を縮めた、そのときだった。
通りの坂道から、足を引きずるような慌ただしい靴音が近づいてきた。
作業場の入り口に現れたのは、厚手の毛布を肩から羽織った初老の男性だった。
唇の色を失い、吐く息を白く凍らせている。
「トア君、いるかい! 頼む、助けてくれ!」
「カルツさん? どうしたんですか、そんな格好で」
トアは作業台から身を起こした。
男性は、下層区にある第4共同住宅の管理人だった。
「地下の集中暖房が、今朝から冷え切ってしまったんだ。煙突からは煙が出ているのに、各部屋の放熱器に全く温もりが回らない。住民には赤ん坊もいるし、寒さに弱い年寄りも多い。このままじゃ今夜を越せないよ」
ネリヴァの谷底は雨の湿気と冷気が溜まりやすく、暖房の停止は文字通り命に関わる。
「すぐに伺います。工具を持って行きますから」
トアが反射的に作業鞄へ手を伸ばしたとき、カルツが申し訳なさそうに視線を泳がせた。
「すまないね、トア君。住宅の修繕積立金が底をついていて……今すぐまとまった金は払えないんだ。だが、君なら安く見てくれるだろうと思って、恥を忍んで走ってきたんだ」
トアの手が鞄の真鍮金具の上で止まった。
カルツの困り果てた顔を見ると、胸が痛んだ。
「……分かりました。費用は後でいいですから、とりあえず部品代の実費だけで――」
「そこまでにしてください」
冷徹な声が、トアの言葉を断ち切った。
セナが二人の間に歩み出て、カルツの前に立った。
「設備局防護技術課、セナ・オルミです。カルツさん、その依頼の受け方は認められません」
「な、なんだいあんたは。役所の人間か? こっちは凍えそうなんだ、邪魔をしないでくれ!」
「邪魔をしているのではありません。危険を未然に防ぐための規則です」
セナは書類挟みから新しい用紙を一枚引き抜き、鉛筆を走らせながら淀みなく語りかけた。
「集中暖房の停止原因は、熱源魔法の残留偏向、あるいは吸気配管の閉塞の二点に絞られます。後者であれば、住民の皆様による煤払いで解決可能です。しかし前者であった場合、炉内の熱核に直接触れる作業となり、専門的な防護器具と回収技術を要します。これは命に関わる危険作業です」
セナはトアを鋭く見据えた。
「危険作業の対価を無償同然に設定することは、作業者の安全配慮義務を怠る行為であり、市条例の適正工賃規定に違反します。カルツさん、暖房を直したいのであれば、作業を二つに分割してください」
「二つに、分ける?」
カルツが呆気にとられたように訊ねた。
「ええ。炉の周囲の灰の掻き出しと煙突掃除は、住民の方々が作業班を組んで直ちに行ってください。設備局の指定手順書をお貸しします。それにより、発生する費用はゼロになります。そして、炉の内部に残った熱魔法の安定化と偏向除去の専門作業のみを、トア・レキネへ正規の工賃で委託してください」
セナは手帳に素早く数字を書き込み、カルツへ提示した。
「これが専門技術に対する最低限の適正工賃、銀貨二枚です。住民全員で分担すれば、一世帯あたり銅貨数枚の負担で済みます。これ以下での契約は、技術の私的搾取とみなし、設備局として暖房への着火許可を出しません」
カルツは提示された金額とセナの揺るぎない眼差しを見比べ、それから大きく息を吐き出した。
「……確かに、若いトア君に全部丸投げして、タダ同然で命を張らせようとしていたのは、俺たちの甘えだったよ。分かった。住民たちに声をかけて、すぐに掃除を始める。トア君、銀貨二枚で、炉の専門作業を頼めるかい」
トアは息を呑み、セナの横顔を見た。
彼女は表情を変えずに立っていたが、その背筋は一本の糸で吊り上げられたように真っ直ぐに伸びていた。
トアはゆっくりと首を縦に振った。
「……はい。適正な作業として、お引き受けします」
ミレが背後で、小さく鼻を鳴らして笑った。
「決まりだね。道具の運搬なら私の荷車を使いな。現場まで乗せてってやるよ」
◆ ◆ ◆
第4共同住宅の地下室は、氷室のように冷え切っていた。
巨大な鋳鉄製の暖房炉が、部屋の中央で黒々と沈黙している。
周囲には、セナの指示書に従って防塵布を巻いた住民たちが集まり、火かき棒を手にして懸命に灰を掻き出していた。
「灰の搬出、完了しました!」
住民の一人が声を上げると、セナが懐中電灯で炉の吸気口を照らして確認した。
「吸気路の通気は確保されました。これ以降の作業は危険区域となります。住民の方は全員、地上へ退避してください」
住民たちが足早に階段を上がっていき、地下室にはトア、セナ、ミレの三人が残された。
トアは作業用の厚い革手袋をはめ、炉の点検扉の前に膝をついた。
炉の奥を覗き込むと、耐火煉瓦の壁面に、赤黒く澱んだ光の塊がへばりついていた。
熱を供給するための魔法石が砕け、未使用の熱エネルギーが不規則な波を描いて煉瓦を焦がし続けている。
停止条件である温度感知機構が破損したため、熱が循環回路へ乗らず、炉の底で空回りして異常加熱を起こしていた。
トアは先ほどミレから受け取ったばかりの吸着ノズルを、青銅の捕集筒へしっかりとねじ込んだ。
寸分の狂いもなく噛み合わさった金属が、微かな手応えを指に返す。
「オルミ技師、炉の背面の放熱弁の開度を3割に保ってください。急激に熱を抜くと、鋳鉄の炉体が急冷で割れます」
「了解しました。弁の固着はありません、いつでもどうぞ」
セナが炉の裏側へ回り込み、真鍮のレバーを慎重に操作する。
トアは息を整え、捕集筒の先端を赤黒い光の核へと向けた。
ミレが製作した新しいノズルが、吸気音を立てて熱の奔流を捉えた。
隙間のない精密な溝が、余分な冷気を遮断し、熱エネルギーの核だけを正確に筒の内部へと導いていく。
赤黒い光が細い一本の線となって真鍮筒へと吸い込まれ、炉内の温度が目に見えて落ち着きを取り戻していった。
「放熱弁、5割へ開放」
「同調しています。熱核の吸着率、80パーセント……90パーセント」
トアは額に浮かぶ汗を拭うこともせず、示度針の針の動きを凝視した。
筒が心地よい温もりを帯び、過剰な暴走の気配は消え去っていく。
カチリ、と小さな機械音がして、炉の安全遮断弁が正常な位置へと滑り込んだ。
「熱核の安定化、完了しました」
トアが捕集筒を引き抜くと同時に、セナが背面の循環ポンプを手動で起動させた。
温められた水が管を通って住宅の上層階へと駆け上がっていく、心地よい水流の音が壁の向こうから響いてきた。
数分もしないうちに、階段の上の扉が開き、住民たちの歓声が地下室へと降り注いできた。
「温まってきたぞ! 部屋の放熱器が息を吹き返した!」
カルツが階段を駆け下りてきて、湯気の立ち始めた炉体を信じられない面持ちで撫で回した。
そして、トアの前に立ち、約束の銀貨二枚を両手でしっかりと差し出した。
「ありがとう、トア君。あんたの腕は本物だ。これは約束の工賃だ。住民全員から集めた、正当な対価だよ」
トアは差し出された銀貨を見つめた。
今度は迷わずに手を伸ばし、硬い金属の感触を手のひらで受け止める。
端材代や銅貨数枚で誤魔化していたときとは違う、冷たく、ずっしりとした重みがそこにあった。
「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
仕事を終え、作業場へ戻る道すがら、大屋根の下には夕暮れの気配が漂い始めていた。
坂道の途中で、トアは立ち止まり、ポケットから先ほど受け取った銀貨を取り出した。
そして、隣を歩くミレの手を取ると、その手のひらの上へ銀貨二枚をそのまま載せた。
「足りない分は、明日の仕事で必ず払う。まずは、先月と先々月の工具代だ」
ミレは手のひらの銀貨を見つめ、それからトアの顔を見た。
彼女は眉を下げ、呆れたような、しかしどこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「……受け取っておくよ。これで貸し借りなしとは言わないけどね。明日の朝、また新しい刃物を持ってきてやる」
ミレは荷車を押して、自分の工房がある路地へと足早に去っていった。
残されたトアとセナの間に、大屋根を叩く静かな雨音が戻ってくる。
「……オルミ技師」
「何でしょうか」
「ありがとうございました。もしあなたが止めてくれなかったら、俺はまた同じ間違いを繰り返すところでした」
セナは図面ケースを抱え直し、わずかに視線を泳がせた。
「礼を言われる筋合いはありません。私は技師として、適正な運用基準を遵守させただけです。……ですが、あなたの技術が正当に評価されたことについては、異論はありません」
セナはそう言うと、手帳の間に挟んでいた一枚の厚紙を取り出し、トアへと差し出した。
それは、カルツが暖房の故障状況を書き留めていた、住宅の苦情受付記録の写しだった。
「これを見てください」
セナが指し示した欄には、暖房が停止した正確な日時が記されていた。
昨日の午前6時15分。
トアは目を細めた。
「昨日の午前6時15分……これって?」
「ええ。あなたがパン屋の店主を救助した時刻であり、そして第2低層区の地下洗濯場で揚水管が逆流を始めた時刻と、完全に一致しています」
セナの冷涼な声が、薄暗い路地に沈んでいく。
「異なる区画の、まったく構造の異なる設備で、同一の瞬間に発生した異常。……ネリヴァの町で、何かが起き始めています」
二人の頭上で、雨を受け止める大屋根の骨組みが、風もないのに小さく軋んだ。




