第4話「荷車は空を走れない」
ネリヴァの中央広場から見上げる東側の崖面には、巨大な木組みの高架倉庫がそびえ立っていた。
町の外の農村から運び込まれる穀物や生鮮食品は、崖の上の街道からこの高架倉庫へ集められ、そこから大型の巻揚機を使って地上の市場へと降ろされる仕組みになっている。
朝の市場が開く前のこの時間帯は、本来であれば新鮮な野菜や果物を積んだ木箱が次々と荷降ろしされ、商人たちの威勢のいい声が響き渡っているはずだった。
だが今、高架倉庫の下には、途方に暮れた商人たちが群がり、重苦しいざわめきが広がっていた。
「おい、いつになったら荷が降りてくるんだ!」
「今日の市で売るはずの高原トマトと生肉が、全部上の倉庫に取り残されたままだぞ!」
「この湿気だ、日暮れまで放置したら肉が傷んじまう!」
トアが人混みをかき分けて進むと、荷揚げ場の真下で、脂汗を流した市場の役員が商人たちに取り囲まれていた。
頭上を見上げると、高架倉庫から張り出した分厚い荷受け台が、地上15メートルの高さで静止している。
荷を吊り下げるための頑丈な鋼索が、ぴんと張り詰めたまま身動きを一つもしない。
「トア、こっちだ!」
手招きする声に視線を向けると、大型の荷車を脇に停めたミレが立っていた。
その隣には、すでに設備局の作業服に着替え、鋼索の巻き取りドラムを厳しい目で見つめているセナの姿もあった。
「状況は?」
トアが駆け寄ると、セナが図面を広げたまま手短に告げた。
「主軸の歯車が噛み合って固着しています。過負荷による軸受けの焼き付きです。歯車を外して交換するには最低でも二日はかかります」
「二日だと!? そんなに待てるわけがないだろう!」
詰め寄ってきたのは、市場で最大の青果店を営む大柄な男だった。
「なあ、回収屋のあんたなら、魔法を使ってどうにかできるんじゃないのか? 空を飛ぶ魔法があるんだろう! 荷車にその魔法をくっつけて、上の倉庫から荷物ごと空を飛ばして一気に地上へ降ろせばいいじゃないか!」
周囲の商人たちから、賛同の声が一斉に上がった。
空を飛ぶ荷車。
物語の中に出てくるような華やかな解決策に、人々はすがりつこうとしていた。
だが、トアは即座に首を横に振った。
「できません。そんなことをすれば、積んだ荷物もろとも大惨事になります」
「なんだと? 出し惜しみする気か!」
「浮遊魔法は、風を制御する魔法じゃありません」
トアは商人たちの怒気を受け止めながら、静かに、しかしはっきりと言葉を紡いだ。
「谷間から吹き上げる突風を受ければ、荷車は木の葉のように煽られてバランスを崩します。積荷の重さが少しでも偏れば、車体ごとひっくり返って空中で荷物をぶちまけることになる。地上にいる人たちの上に、何十キロもの木箱が降ってくるんですよ」
怒気を孕んでいた商人たちの口が、一斉に噤まれた。
トアは高架倉庫の足元から地上へ続く、九十九折りの狭い連絡坂道を見上げた。
人が歩いて登るための細い石畳の坂道で、傾斜が急すぎるため、重い荷車を通すことは不可能とされていた道だ。
「空を飛ばすことはできません。ですが、地上の坂道を使って、安全に荷を降ろす方法ならあります」
「あの急坂をかい?」
ミレが眉をひそめた。
「いくら私の頑丈な荷車でも、あんな勾配を重い荷物を積んで下ろしたら、車輪の摩擦熱でブレーキの木材が炭になって吹き飛ぶよ。人間が後ろから引っ張ったって、重力に負けて谷底まで転がり落ちるのがオチだ」
「車輪にかかる重さを、半分に減らせばいいんだ」
トアは鞄から、パン屋で回収した真鍮筒を取り出した。
小窓の奥では、微弱な浮遊の力が青く揺らめいている。
「この魔法は、持ち上げる力は弱いけれど、対象の重量感を相殺する性質を持っている。これを荷車の車軸に接続して、車輪にかかる荷重だけを半分に逃がす。荷車を浮かせるんじゃない。荷車の自重と積荷の重さを、平地を走っているときと同じ軽さに調整するんだ」
セナのペンの走るカリカリという硬質な音が、トアの耳に届く。
彼女の目が手帳の数式から離れないのを見て、トアは確信した。
「……なるほど。荷重が半分になれば、坂道での滑走速度は計算上、制御可能な範囲に収まります。ですが、それだけでは不十分です。もし作業員の握力が抜けた場合、暴走を止めるフェイルセーフがありません」
セナはミレの荷車に歩み寄り、車輪の木製リムを採寸尺で測った。
「ミレさん、荷車の左右の車輪の内側に、逆回転を機械的に阻止する歯止め爪を取り付けられますか。進行方向への回転は許容し、速度が一定を超えた瞬間に遠心力で爪が飛び出し、車軸を固定する構造です」
ミレの職人としての瞳が鋭く輝いた。
「遠心ブレーキかい……! 面白い、それなら私の工房にある予備の歯車とバネを組み合わせれば、30分で作れるよ」
「よし、軌道の確保は俺がやる」
トアは周囲の商人たちへ向き直った。
「皆さん、倉庫から荷物を降ろしたいなら、手を貸してください! 連絡坂道の両脇に、荷車の車輪が脱輪しないための案内軌道を作ります。市場にある厚手の足場板と角材を、あるだけここに集めてください!」
商人たちの足音が広場に弾け、それぞれが走り出した。
もはや愚痴をこぼす者はいなかった。
自分たちの生活の糧を守るため、誰もが木材を担ぎ、釘と金槌を持って坂道へと散っていった。
◆ ◆ ◆
大屋根の下に、金槌が木材を叩く乾いた音がこだましていた。
九十九折りの坂道に沿って、商人たちの手によって二本の木製ガイドレールが敷設されていく。
急ごしらえではあるが、荷車の車輪を両側から挟み込み、脱輪を防ぐには十分な強度が保たれていた。
高架倉庫の荷受け台の上で、トアはミレの大型荷車の改造を行っていた。
車輪の主軸に、真鍮の薄板を巻き付け、そこへ回収した浮遊魔法のノズルを慎重に接続する。
「セナ、調整弁の開度はどれくらいにする?」
自然に名前で呼んだトアに対し、セナも手帳から目を離さずに即座に応じた。
「4割です。それ以上開くと車輪と地面の摩擦が抜けすぎて、ブレーキが効かなくなります。接地圧を完全に失わせてはいけません」
「了解。4割で固定する」
トアが真鍮の固定ボルトを締め込むと、荷車の車軸から淡い青い光が滲み出し、木製の車体がかすかに浮き上がるような軽やかな気配を纏った。
ミレが完成した遠心ブレーキ爪を両輪に取り付け、ハンマーで叩いて動作を確認する。
「よし、爪の噛み合わせは完璧だ。試運転といこうじゃないか」
最初の積荷として、瑞々しい高原トマトが満載された木箱が十箱、荷台へ積み込まれた。
本来であれば大人三人がかりでなければ動かせない重量だ。
だが、ミレが荷車の牽引棒を両手で握り、軽く力を込めた瞬間、荷車は滑らかに前へと進み出した。
「軽い……! まるで空の荷車を引いているみたいだよ!」
「油断しないで、ミレさん。坂道に入れば下向きの加速度がつきます!」
セナが坂道の入り口で停止旗を構えながら叫んだ。
荷車が急勾配の坂道へと差し掛かる。
案内軌道に沿って車輪が回転を始め、乾いた木と木が擦れ合う音が響く。
重力に従って荷車が加速しようとするが、トアが組み込んだ浮遊魔法が車重を殺し、驚くほど制御しやすい速度で坂道を下っていく。
「いけるぞ! ブレーキも正常に作動している!」
ミレの力強い掛け声とともに、荷車は九十九折りの難所を次々とクリアし、地上で待ち構えていた商人たちの前へと滑り込んだ。
車輪の爪が木製の案内軌道のストッパーへ深く噛み合い、回転を停止させた。
地上の市場から、割れんばかりの大歓声が沸き起こった。
「降りてきた! トマトだ、傷一つついてないぞ!」
「急げ、次の荷物を積め! 夕方までに全部降ろすんだ!」
それからの数時間は、息をつく暇もないピストン輸送となった。
トアは荷車の浮力残量を常に示度針で監視し、セナはブレーキ爪の摩耗度を走行ごとに点検し、ミレは巧みな足さばきで荷車を操り続けた。
商人たちも木箱の積み降ろしを迅速にこなし、高架倉庫に山積みされていた生鮮品は、地上の市場へと運ばれていった。
木材と金属の軋み、そして人々の掛け声が、単調だが確実なリズムを刻み続ける。
谷間に夕暮れの深い影が落ちる頃、最後の一箱が無事に地上の荷降ろし場へと届けられた。
市場の棚には色鮮やかな野菜と肉が並び、待ちわびていた町民たちの活気ある買い物の声が響き渡っていた。
「やりきったね……!」
ミレが汗だくになった顔を拭い、荷台の上に大の字になって倒れ込んだ。
トアもその場に腰を下ろし、心地よい疲労感の中で荒い息を整えた。
両手のひらには、ブレーキのロープを支え続けたときの摩擦の赤みが残っていた。
青果店の店主が、湯気の立つ温かい香草茶が入った木製ジョッキを三つ持って駆け寄ってきた。
「トアさん、技師さん、ミレさん! 本当に助かった! あんたたちのおかげで、市場が救われたよ!」
店主はそう叫びながら、ずっしりと重い革袋をトアの手へ握らせた。
今度は、商人組合が正式に取り決めた、三人の技術と働きに対する満額の報酬だった。
トアは袋を受け取り、それをミレとセナの間へ置いた。
「三人で、均等に分けよう」
ミレが片目を開けて笑い、セナは一瞬戸惑ったように瞬きをしてから、小さく頷いた。
市場の明かりが灯り始め、人々が家路につき始めた頃、トアとミレは使った案内軌道の木材を片づけ始めた。
セナは一人、沈黙を保ったまま、高架倉庫の機械室へと戻っていった。
トアが気になって後を追うと、薄暗い機械室の奥で、セナが油まみれの床に膝をつき、壊れた巻揚機の制御盤を食い入るように見つめていた。
「レキネさん? どうしたんだ、もう片づけは終わったよ」
トアが声をかけると、セナは振り返らなかった。
彼女の手には、制御盤の裏側から引き抜かれたと思われる、細い青銅の棒が握られていた。
「……レキネさん。これを見てください」
セナの声は、氷のように冷たく震えていた。
トアが近づき、彼女の手元を懐中電灯で照らす。
青銅の棒の先端は、工具で乱暴に切断された跡があった。
「これは、巻揚機の過負荷安全装置……荷重が限界を超えたときに、動力を強制遮断するための安全ピンです」
「それが、切断されているのか?」
「いいえ。切断されたのではありません」
セナは立ち上がり、懐中電灯の光を制御盤の奥深くへと向けた。
そこには本来、高価な安全装置が収まっているはずの空洞があり、代わりに安価な真鍮の針金が何重にも巻き付けられ、回路が無理やり直結されていた。
「安全ピンが故意に抜き取られ、別の配線でバイパスされていました。……これを取り外した人物は、設備が過負荷で焼き付くことを最初から知っていたはずです」
セナの黒い瞳の奥で、確かな動揺が波打っていた。
「事故じゃない。誰かが、この巻揚機を意図的に壊したか……あるいは、ここから安全装置を抜き取って、別のどこかへ転用したのです」
トアの脳裏に、昨日の地下洗濯場で見つけた、あの不自然な白銀の公設接続部品の記憶が鮮烈に蘇った。
谷底を覆う大屋根の向こうから、冷たい雨の匂いが一段と濃く流れ込んできていた。




