第2話「雨漏りは床からやってくる」
ネリヴァの町を縦断する大水路の脇を抜け、二人は第2低層区へと続く石造りの階段を駆け下りていた。
大屋根から樋を伝って落ちてくる雨水が、水路の壁面を洗うように流れている。
谷底へ近づくほど湿度は上がり、冷え切った空気の中に古い石材と苔の匂いが充満していた。
「なぜ、あなたまでついてくるのですか?」
濡れた階段を滑らぬよう慎重に降りながら、セナが前を走るトアの背中に厳しい声を投げかけた。
彼女の抱える図面ケースには、すでに細かな水滴がびっしりと付着している。
「床から雨が降るなんて現象、ただの配管詰まりじゃ起きません。必ず何かの魔法が噛んでいます。回収屋の現場です」
「原因の特定は設備局の仕事です。無許可の人間が勝手に現場へ立ち入ることは認められません」
「現場で水浸しになっている人たちに、そんな手続きを待つ余裕があると思いますか」
トアが足を止めずに振り返ると、セナは唇を真一文字に結び、それ以上は制止の言葉を口にしなかった。
共同洗濯場は、低層区の集合住宅の地下に設けられた巨大な石室だった。
普段であれば、近隣の住民たちが集まって洗濯板を鳴らし、世間話に花を咲かせる場所だ。
だが今、分厚い木製の中折れドアの隙間からは、白く泡立った水が滝のように溢れ出していた。
「逃げろ! 早く荷物を引き上げろ!」
ずぶ濡れになった住民たちが、洗濯籠を抱えて悲鳴を上げながら階段を駆け上がってくる。
トアは避難する人々の波をすり抜け、ドアを押し開けて地下室へと踏み込んだ。
地下室の光景は、異様の一言に尽きた。
石畳の床に並ぶ十数箇所の排水溝から、水が噴水のように勢いよく噴き上がっていた。
吹き上がった水柱は天井の石板へ衝突し、砕け散って無数の水滴となり、地下室の全域へ土砂降りの雨となって降り注いでいる。
足元にはすでに踝を没するほどの水が溜まり、排水口へ吸い込まれるどころか、底から次々と湧き出していた。
冷たい水飛沫がトアの前髪を濡らし、作業着の肩を一瞬で重く湿らせる。
トアは目を細め、天井から落ちてくる水滴を掌で遮りながら、足元の水流を観察した。
水は泡立ち、オゾンが焦げるような鋭い刺激臭を伴う微かな燐光を帯びていた。
「揚水管だ。地下深くの貯水層から上層の配水塔へ水を押し上げるための循環魔法が、逆流して排水溝へ流れ込んでいる」
「待ちなさい、不用意に近づいては危険です!」
背後から入ってきたセナが叫び、防水布で覆われた配管系統図を素早く広げた。
降り注ぐ水滴が図面を叩くが、彼女の指先は迷いなく壁面の一点を指し示した。
「この洗濯場の排水溝は、第3バイパス管を通じて本水路へ繋がっています。逆流を止めるには、あそこの主遮断弁を閉鎖するしかありません」
セナが指差したのは、激しく水が噴き出す排水溝のすぐ脇、壁面の奥深くに設置された巨大な青銅製のバルブだった。
だが、そのバルブ自体がガタガタと振動し、継ぎ目から鋭い水煙を噴き出している。
「駄目だ、あそこへ直接手を伸ばしちゃいけない!」
トアがセナの肩を掴んで引き戻した。
次の瞬間、バルブの直前で床石が一枚、水圧に耐えかねて浮き上がり、破片を撒き散らして吹き飛んだ。
「図面通りに主弁をいきなり閉めたら、管の中で行き場を失った水が衝撃波を生む。水撃作用だ。この古い壁ごと配管が破裂して、地下室全体が水没するぞ」
トアは叫びながら、鞄から示度針を取り出した。
水飛沫の中に差し出したガラス筒の中で、青い針が右へ左へと振り切れている。
「残留魔法が偏っている。ただの故障じゃない。揚水命令の『上へ送る』という力と、排水溝の『下へ流す』という勾配が衝突して、配管の中で渦を巻いているんだ」
セナの唇がわずかに開いた。
握りしめた図面ケースの角が、白く鬱血した指先に食い込んでいる。
頭の中にある設計図の理論が、目の前で起きている暴力的な物理現象と結びつかない。
「私の計算では……バイパスの許容圧力を超えるはずがありません。なぜこんな規模の魔力が、この末端配管に……」
「原因の究明は後だ! 今はこの暴走を止めないと、上の共同住宅の基礎が緩む!」
トアは長靴の中に水が侵入する冷たさを無視し、水浸しの床を蹴って進んだ。
鞄から取り出したのは、先ほどのパン屋で使った真鍮筒よりも二回りも太い、重厚な青銅製の捕集器具だった。
筒の側面には分厚い鉛の帯が巻かれ、高負荷の魔力圧を一時的に封じ込める構造になっている。
「オルミ技師! 配管図を見てくれ! この区画の圧力を逃がせる、一番近い逃がし弁はどこにある!」
トアの鋭い声に、セナはハッと我に返った。
彼女は濡れた前髪を乱暴に払いのけ、指先を図面の上で走らせた。
「……5メートル後ろ、北側の壁面です! 清掃用の小口径排泥弁があります! ですが、そこを開けても水圧の一部しか逃げません!」
「十分だ! 俺がこの器具で、配管の継ぎ目から暴走している『逆流命令』の核を一時的に吸着して引きつける! その瞬間に、圧力が一瞬だけ下がるはずだ。あんたはその隙に排泥弁を全開にして、主弁を三段階に分けて絞ってくれ!」
「無茶です! そんな高圧の残留魔法を直接吸着したら、器具の反動があなたの腕にかかります!」
「他に方法があるなら教えてくれ!」
トアのまっすぐな視線を受け、セナは唾を飲み込んだ。
彼女は自分の手帳を強く握りしめ、それから力強くうなずいた。
「……わかりました。排泥弁の開放から主弁の第一段階閉鎖まで、4秒で完了させます。タイミングを合わせなさい!」
セナは躊躇うことなく泥水の中へ飛び込み、北側の壁面へ向かって走った。
外套の裾が泥水を跳ね上げ、美しかった制服が無残に濡れそぼっていく。
トアは深く息を吸い込み、噴き上がる水柱の正面へと躍り出た。
冷たい水が頭上から容赦なく叩きつけられ、視界を奪う。
配管の亀裂から漏れ出る青白い光の筋が、泥水の中で不気味にうごめいていた。
(対象は水、命令は逆流、停止条件はなし……力任せに奪うんじゃない。流れの向きを揃えて、器具の部屋へ誘い込む)
トアは青銅の捕集器具を両手で構え、配管の最も振動している亀裂へ、器具の吸着口を押し当てた。
金属同士が擦れ合う鈍い衝撃が、トアの両腕の骨を伝って肩へと突き抜ける。
トアは引き金を全開まで引き絞った。
筒の内部で封印されていた導魔繊維が一斉に励起し、吸引力を生み出した。
配管の中を逆流していた青い光の奔流が方向を変え、トアの持つ青銅筒へと雪崩を打って吸い込まれ始める。
腕の筋肉が軋み、足元の石畳の上で靴底が滑りそうになる。
トアは歯を食いしばり、膝を深く曲げて踏ん張った。
筒が急激に熱を帯び、冷たい水飛沫の中で白い蒸気が立ち上る。
空間を満たす産毛が逆立つほどの濃密な静電気が、トアの頬をチクチクと刺した。
配管の振動が、ほんの一瞬だけ、ふっと弱まった。
噴き上がっていた水柱の勢いが目に見えて衰える。
「今だ、セナ!」
トアの叫びと同時に、背後で金属製のハンドルが回る音が響いた。
セナは泥水の中に膝をつきながら、排泥弁のボルトを一気に引き抜いていた。
壁の低い位置から、濁った泥水が横方向へ噴出し、本管にかかっていた内圧が逃げていく。
間髪を入れず、彼女は立ち上がり、主遮断弁の巨大なハンドルへと両手をかけた。
「一段階……閉鎖!」
セナの凛とした声が地下室に響き渡る。
弁が重い音を立てて一段階噛み合い、水流の音が低くなった。
「二段階……!」
トアの持つ器具が限界容量に達し、排気孔から火花のような青い燐光がこぼれ始めた。
腕の感覚が麻痺しそうになるほどの負荷がトアを襲う。
(あと1秒、持ちこたえろ……!)
トアは腰を落とし、体重のすべてを器具へ預けて配管に押し当て続けた。
「三段階……完全閉鎖!」
セナが渾身の力で最後の刻みを回しきった瞬間、地下室を満たしていた轟音が途絶えた。
配管の内部でくぐもった衝撃音が一つだけ鳴り響き、それから全ての水流がその場に崩れ落ちた。
天井を叩いていた雨が止む。
残されたのは、床一面に溜まった水が引いていく波紋の音と、二人の荒い息遣いだけだった。
トアは青銅筒の弁を素早く閉じ、熱を持った器具を作業台の上へ降ろした。
両腕が細かく震え、指先が強張っている。
全身から水滴が滴り落ち、作業着は泥と錆で茶色く汚れていた。
振り返ると、セナもまた壁に背を預けて座り込んでいた。
紺色の外套は完全に水を吸って重く垂れ下がり、自慢の図面ケースも泥にまみれている。
一本に束ねていた黒髪が解け、濡れた前髪が白く整った頬に張り付いていた。
彼女は自分の震える指先を見つめ、それからトアを見上げた。
「……4秒、ぴったりでしたね」
トアがかすれた声で言うと、セナは呆れたように短いため息をついた。
「3.8秒です。あなたの器具が保たなければ、二人とも吹き飛ばされていました」
セナは壁に手をついて立ち上がり、膝の泥を払おうとしたが、汚れが広がるだけだった。
彼女は諦めたように息を吐き出し、トアの足元にある青銅筒をじっと見つめた。
「信じられません。あのような高圧の残留魔法を、手持ちの器具だけで制御しきるなんて……机上の計算では事故率80パーセント以上の暴挙です」
「現場じゃ、計算通りにいかないことのほうが多いですから」
「……ええ。否定はできません。あなたの判断と技術がなければ、配管の破裂を防ぐことは不可能でした。この区画の住民を代表して、技師として礼を言います」
セナは図面ケースを胸に強く抱き込み、踵を揃えた。
雨に濡れた石畳へ向かって深々と折られたその背筋には、一切の淀みがなかった。
しかし、顔を上げた彼女の瞳には、すでに別の鋭い光が宿っていた。
「ですが、話は別です」
「……やっぱりそう来ますか」
トアが苦笑すると、セナは懐から濡れずに済んだ手帳の予備を取り出した。
「今回の回収物について、詳細な魔力特性の分析表と、保管場所の届出書の提出を義務づけます。また、あなたが今後行う回収および再利用の作業には、すべて設備局の事前審査、あるいは私の立ち会い検査を条件とします」
「そんな書類仕事、俺一人じゃ抱えきれませんよ。文字を書く暇があったら道具の手入れをしたいんです」
「書き方は私が指導します。拒否するなら、今回の器具も押収対象です」
理不尽なまでの厳格さだったが、その声にはトアの技術を単なる違法行為として排除するのではなく、規則の枠組みの中で正当に生かそうとする意志が含まれていた。
「……わかりましたよ。書けばいいんでしょう、書けば」
トアが肩をすくめると、セナの唇の端が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
トアは濡れた手で工具を拾い集め、破裂を免れた配管の亀裂へ視線を戻した。
応急処置として締め付け金具を取り付けるため、配管の根元に手を差し入れる。
泥と水垢を拭い去ったとき、トアの指先が、金属の継ぎ目に刻まれた奇妙な凹凸に触れた。
「……何だ、これ」
トアは懐中電灯を取り出し、配管の奥を照らした。
苔むした古い青銅配管の接続部に、そこだけ不自然なほど新しい、白銀色の輝きを放つ金属部品が割り込まされていた。
滑らかな曲面と、六角形の精密な固定ボルト。
「どうしました?」
セナが近寄り、トアの肩越しに配管の奥を覗き込んだ。
次の瞬間、彼女の呼吸が浅く乱れた。
「……嘘でしょう? これは……」
セナが手を伸ばし、白銀の部品に刻まれた小さな紋章を指先でなぞった。
そこには、設備局の最新式資材にしか刻まれない、三つの同心円の刻印があった。
「公設接続部品……? 先月、上層の基幹設備に配備されたばかりの、最高等級の資材よ。なぜ、こんな低層区の古い地下排水溝に使われているの……?」
「この部品が、上から流れてきた魔法の圧力を無理やりこの細い配管へ押し込んでいたんだ。まるで、何かをここへ捨てて隠すみたいに」
トアが呟くと、セナは白銀の部品を見つめたまま押し黙った。
大屋根を叩く雨音が、地下室の天井の向こうで、一段と重く響いていた。




