番外編「図面にない椅子」
◇セナ視点
石造りの長屋の階段を上がる靴底に、乾いた砂粒が微かな抵抗を返した。
ネリヴァの谷底を覆っていた湿潤な空気は、大屋根の一部が外されたことで、外の乾いた季節風によって少しずつ入れ替えられていた。
セナ・オルミは小脇に抱えた厚手の革鞄の重みを確かめ、二階の突き当たりにある木製扉の真鍮ノブに手をかけた。
扉の表面には、かつてなかった小さな真鍮プレートが水平に取り付けられている。
『レキネ回収技術事務所』と、トアの少し角張った筆跡をそのまま彫り込んだ銘板だった。
セナは指先でその文字の凹凸を軽く撫でてから、ノブを静かに押し回した。
室内には、亜麻仁油と金属粉が混ざり合った、この作業場特有の硬質な匂いが満ちていた。
正面の大きな作業台の上には、分解されたばかりの真鍮製ノズルが三つ、寸分の狂いもなく直線状に並べられている。
奥の旋盤の前に立つトア・レキネは、革のエプロンを締め、背中を丸めて油砥石で鋼の刃物を研いでいた。
砥石と鋼が擦れ合う規則正しい摩擦音が、規則的なリズムで室内に刻まれている。
セナは足音を忍ばせて敷居を跨ぎ、背後で扉を閉めた。
鍵をかける小さな金属音が落ちると、トアの肩がわずかに動き、研ぐ手が止まった。
「セナか?」
トアは振り返らず、刃物の刃先を指の腹で確かめながら言った。
「早かったな。設備局の定時報告はもう片づいたのか?」
「中央区画の開閉試験に関する報告書は、十四時に受理されました。残りの時間は、現場設計の保安確認に充てることが認められています」
セナは鞄を作業台の端、工具の油が届かない乾いた木肌の上へ置いた。
トアは研ぎ終えた刃物を布で拭い、ようやくこちらを向いて息を吐いた。
額には細かな汗が浮き、頬には機械油の黒い染みが一筋残っている。
「で、今日はどの壁を叩くんだ?」
「叩くのではありません。耐震補強用の筋交いを追加するための、正確な実測調査です。この長屋は築三十年を超えており、外壁の青銅リベットに経年疲労が見られます。大屋根からの雨水流入経路が変わったことで、基礎石の含水率も変化していますから、正確な寸法を取らなければ部材の発注ができません」
セナは鞄から真鍮の巻き尺と、白木で作られた折りたたみ式の採寸定規を取り出した。
さらに、両端に鉛の錘をつけた細い麻糸の束を指先に引っかける。
「手伝おうか?」
「いえ、一人で測定できます。あなたは手元の刃物の仕上げを終わらせてください。刃先を中途半端な状態で放置すると、油が酸化して錆の原因になります」
セナは手帳を開き、あらかじめ引いておいた作業場の平面図を広げた。
部屋の四隅に視線を走らせながら、壁面の基準線へ麻糸を垂らす。
初めてこの部屋へ踏み込んだ日の光景が、セナの脳裏に鮮やかに蘇った。
あのときは、床一面にガラクタとしか思えない金属片が散らばり、書類の代わりに油まみれの伝票が乱雑に積まれているように見えた。
無認可の怪しげな修理屋が、危険な魔法のゴミを溜め込んでいる場所だと、厳しく断じたものだった。
だが、今のセナの目には、そのすべての配置が異なって映っていた。
壁の棚に吊るされた吸着筒は、最も緊急性の高い熱源遮断用が、トアの右手が最も伸ばしやすい高さに固定されている。
重い耐圧容器は、床板の梁が二重に通っている頑丈な直上に置かれ、万が一の落下時にも床を突き破らない配慮がなされていた。
作業台の周囲には、無駄な歩行を排除するための扇形の動線が、擦り切れた床板の白さとなって刻まれている。
(すべて、彼の手の動きから逆算されている)
セナは採寸定規を壁の角にあてがい、目盛りを読んだ。
「北側開口部、垂直度マイナス二ミリ。許容誤差の範囲内です」
独り言のように数字を呟き、手帳の図面へ青インクで記入していく。
東側の壁、道具棚の隙間、そして暖炉の脇へと、セナは歩みを進めた。
暖炉の前に差し掛かったとき、セナの足がふと止まった。
暖炉の灰受けは綺麗に掃き清められ、新しい薪が二本、直角に組まれて置かれていた。
そのすぐ脇、部屋の最も日当たりの良い南側の窓辺に、小さな木製の食卓が据えられている。
以前は道具の仮置き場として使われ、油の染みがついていた机だが、今は丁寧に鉋がかけられ、滑らかな木肌が露出していた。
そして、その食卓を挟むようにして、二脚の椅子が置かれていた。
一脚は、トアが父の代から使い続けてきた、座面の擦り切れた古い丸椅子だ。
四本の脚の先端には、床を傷つけないよう厚い革が巻かれている。
もう一脚は、その隣に並んでいた。
真新しい白木の香りをかすかに漂わせる、背もたれのついた簡素な椅子だった。
座面の高さ、肘掛けの角度、足置きの横木の位置。
すべてが、トアの無骨な体格には少し小さすぎる寸法で作られていた。
セナの胸の奥が、ことりと音を立てて小さく跳ねた。
彼女はその椅子の背もたれにそっと手を触れた。
指先に伝わる木肌は、驚くほど滑らかに磨き上げられていた。
角という角が丁寧に面取りされ、服の繊維が引っかからないよう、蜜蝋が薄く刷り込まれている。
セナは鞄から真鍮のノギスを取り出し、その完璧な曲面の寸法を測ろうとして、すんでのところで手を止めた。
数値で証明するまでもない、誰のための造形であるかは明らかだった。
彼女の鼓動が不規則なリズムを刻み始め、首筋から耳たぶにかけて急激に熱が昇っていくのが分かる。
図面ケースを開けて確認するまでもない。
この作業場の改修図面にも、設備局の資材発注書にも、こんな家具の記載はどこにも存在しなかった。
セナは背後を振り返った。
トアは砥石を片づけ、流しの鉄鉢で手を洗っているところだった。
水滴を拭う布の隙間から、彼がこちらの視線に気づき、わずかに視線を泳がせたのが見えた。
「トア」
「……何だ。採寸、終わったのか」
トアは手ぬぐいを棚へ戻し、わざとらしく棚の真鍮ボルトの緩みを点検する仕草をした。
セナは椅子の背もたれから手を離さず、背筋を伸ばして彼を見据えた。
技術者として、不明な点を曖昧なまま処理することはできなかった。
それ以上に、この椅子の存在理由を、他ならぬ彼の口から確かめたいという衝動が、胸の奥で急速に膨らんでいた。
「この椅子は、どこの規格品ですか。ネリヴァの家具組合の刻印がありません」
「……規格品じゃない。俺が削った」
「なぜ、二脚目を作ったのですか?」
トアの指先が、ボルトの上でぴたりと止まった。
彼は首筋をぽりぽりと掻き、それから困ったように眉を下げて、セナの足元の椅子へ視線を落とした。
「なぜって……前に言っただろう。以前は木箱に座らせて、冷めきったシチューを食わせちまったからだ」
トアは諦めたように息を吐き出し、作業台の縁に腰を預けた。
夕暮れの光が窓から差し込み、彼の横顔を淡い橙色に染めている。
「お前は、飯を食うときまで図面を広げて、数字ばかり気にしている。固い木箱なんかに座っていたら、背中が凝って余計に息が詰まるだろうが。背もたれがあって、ちゃんと足が地面につく椅子があれば……少しはゆっくり噛んで食えるかと思ってな」
トアは無骨な言葉で言い訳するように続けた。
セナは照れ隠しのために、努めて冷徹な技師の顔を取り繕った。
「背もたれの傾斜角が人間工学的に計算され、大腿部への圧迫を分散する座面の削り込みは完璧です。重心の配置も申し分ありません。……ですが、これは設備局の資材発注書に記載がない無認可の家具です」
早口で専門用語を並べ立てる彼女の耳は、隠しきれないほど赤く染まっていた。
トアは照れくさそうに視線を逸らし、ぶっきらぼうに付け加えた。
「迷惑だったなら、奥の物置へ片づけるが」
「片づけてはいけません」
セナは遮るように、少し強い口調で言った。
そして、その白木の椅子へ、吸い込まれるようにゆっくりと腰を下ろした。
吸い付くような安定感が、腰から背骨へと伝わってきた。
硬すぎず、沈み込みすぎない、絶妙な木肌の弾力。
手すりに置いた手のひらは、自然な角度で収まり、指先が触れる木材からは、トアが何日もかけて刃物を当て、紙やすりで擦り続けた時間の集積が伝わってきた。
セナは背もたれに深く体を預け、小さく息を漏らした。
肩の奥に張り付いていた緊張の結び目が、ふっと解けていく。
「……ちょうどいいです。少しの狂いもありません」
「そうか。なら、よかった」
トアは安堵したように口元を緩めた。
部屋の中に、夕暮れの静寂が落ちてきた。
開口部から吹き込む風が、乾いた麻のカーテンを静かに揺らす。
大屋根から響く雨音はもうなく、谷底の通りを行き交う人々の、穏やかな生活のざわめきだけが遠くから届いていた。
セナは膝の上で手帳を閉じ、指先を組んだ。
胸の中で温め続けていた言葉を、今こそ口にするべきだと感じていた。
仕事の報告でも、安全基準の通達でもない、一人の人間としての意思を。
「トア」
「ん?」
「私は……設備局の仕事がない日にも、ここへ来ていいでしょうか」
トアが驚いたように目を瞬かせた。
セナは組んだ指に少しだけ力を込め、逃げずに彼の目を見つめ返した。
「図面の審査でも、現場の立ち会いでもなく。ただ、ここであなたと食事をするために。……そのために、この椅子を使っていいですか」
問いかけの言葉は、技術者のそれとは程遠く、わずかに震えていた。
トアは目を見張ったまま、しばらくの間セナの顔を見つめていた。
やがて、彼の耳の付け根が赤く染まり、彼は作業着のポケットに両手を突っ込んで、照れくさそうに視線を天井へと泳がせた。
「……当たり前だろ。そのために作ったんだ」
トアは短く答え、少し慌てたように言葉を継いだ。
「あ、いや……俺の作る飯なんて、親父さんの食堂の足元にも及ばないぞ。干し肉と野菜を煮崩したような、雑なスープくらいしか作れないが……それでもいいなら」
「それがいいのです」
セナの唇から、自然と柔らかな微笑みがこぼれ落ちた。
「温かい料理を、冷める前に、あなたと二人で食べる。私にとって、それ以上の食事はありません」
トアは参ったように顔を手で覆い、それから低く笑った。
「参ったな。お前には敵わないよ」
トアは作業台から離れ、窓辺の食卓へと歩み寄ってきた。
そして、古い丸椅子を引いて、セナの正面へと腰を下ろした。
二人の距離は、机の幅一つ分。
手を伸ばせば、互いの指先に触れられる近さだった。
セナは手帳を開き、鉛筆を手に取った。
だが、書き込もうとしたのは耐震強度の計算式ではなかった。
「トア。食卓の位置を決めましょう」
「位置? ここでいいんじゃないのか?」
「いけません。冬になれば、外壁からの隙間風の向きが変わります。暖炉の輻射熱を最も効率よく受けるには、この机をあと十五センチ、東側の壁へ寄せるべきです。そうすれば、食事中に足元が冷えるのを防げます」
セナが真鍮の巻き尺を伸ばすと、トアは苦笑しながらその端を受け取った。
「はいはい、技師様の仰せの通りに」
二人は息を合わせ、木製の机を少しだけ動かした。
床板と脚が擦れ合う微かな音が、夕暮れの作業場に心地よく響く。
定規と巻き尺を使い、ミリ単位で決定された、二人のための食卓の位置。
作業を終えたセナは、測定用の麻糸を巻き取り、鞄の中へと丁寧に収めた。
すべての片づけが終わったあとも、彼女はその椅子から立ち上がろうとはしなかった。
トアが鉄鉢のやかんで湯を沸かし、二つの陶器のマグカップへ香草茶を注いだ。
湯気とともに立ち上る爽やかな香りが、薄暗くなり始めた部屋を満たしていく。
差し出されたカップを両手で包み込みながら、セナは新しく削られた背もたれに身を預け、静かに目を細めた。
窓の外では、ネリヴァの町に一番星が灯り始めていた。




