エピローグ「今日は、空が見える」
谷底を抜ける朝の風には、初秋の澄んだ冷気が混じり始めていた。
急な坂道に立ち並ぶ石造りの長屋の屋根を、斜めに差し込む陽光が白く照らし出している。
トア・レキネは、作業着の袖を肘まで捲り上げ、道具鞄の革ベルトを肩に掛けた。
鞄の中には、新調された真鍮製の示度針と、小型の繊維吸着筒が二本、衝撃吸収用のフェルトに包まれて整然と収まっている。
父の代から使っていた鞄だが、先月ミレの手によって傷んだ底革が張り替えられ、重い器具を入れても型崩れしなくなっていた。
「親方、本日の巡回点検票の複写、準備できました!」
作業場の奥から、元気のいい澄んだ声が飛んできた。
駆け寄ってきたのは、仕立て下ろしの丈夫な綿の作業服を着た十九歳の青年、コリンだった。
ネリヴァの職業訓練校を今春卒業し、トアの事務所の第一号の見習いとして雇い入れられた若者だった。
手には、クリップボードに挟まれた真新しい点検記録が握られている。
トアは手渡された記録票に目を走らせた。
「コリン。第三項目の『残留偏向の確認』の欄、測定値の単位が抜けているぞ」
「あ……すみません! 急いで書き写したもので」
コリンが慌てて胸ポケットから鉛筆を抜こうとしたのを、トアは手で制した。
「焦るな。文字を早く書くことより、現場で誰が見ても同じ数値を読み取れることのほうが大切だ。後から見直す人間が迷うような記録は、事故の引き金になる」
「はい……! 肝に銘じます」
コリンは姿勢を正し、丁寧に単位の記号を書き足した。
トアはその横顔を見つめながら、かつて自分が売掛帳の数字を横線で消し、適当な金額を書き殴っていた頃のことを思い返していた。
人に教える立場になって初めて、セナがなぜあれほどまでに記録の正確さを求めたのかが、身に染みて理解できるようになっていた。
「よし、行こう。今日の最初の現場は、低層区のパン屋だ」
二人は長屋を出て、緩やかな坂道を下り始めた。
頭上を見上げると、そこには見慣れたはずの青銅の骨組みが広がっていた。
だが、その光景は半年前とはまるで異なっていた。
以前のように町全体を密閉していた巨大な鉱石板は、三十メートル四方の可動ブロックごとに分割されていた。
太い鋼索と手動の巻き揚げ機によって、南側と東側の天板が大きく左右へと引き開けられている。
開かれた隙間から、どこまでも高く、澄み渡る本物の青空が谷底へと降り注いでいた。
白い筋雲がゆっくりと風に流れていくのが見える。
鉱石の板を透かした薄暗い青ではなく、太陽の光をそのまま反射した、眩しいほどの鮮青だった。
町中の通りには洗濯物がはためき、屋根の開口部から降り注ぐ陽光を浴びて、人々が晴れやかな顔で行き交っている。
「本当に、空が開いているんですね……」
コリンが空を見上げ、感嘆の息を漏らした。
「子供の頃は、ネリヴァの空は青銅の格子と水滴でできているものだと思っていました。こんなに高い空があるなんて、想像もしていませんでしたよ」
「ああ。雨を塞ぐことだけが、屋根の役目じゃないからな」
トアは坂道の脇に新設された、地上排水溝の金属格子を靴底で軽く踏んだ。
大屋根が開いたことで雨は町へ直接降り注ぐようになったが、整備されたバイパス水路と、住民たち自身による日常的な清掃のおかげで、床上浸水の被害は一度も起きていなかった。
坂を下りきった通りで、懐かしい焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってきた。
『三日月堂ベーカリー』の店先には、朝の焼き上がりを待つ近所の人々の列ができていた。
「トアさん、おはよう!」
粉を払ったエプロン姿の店主が、焼き窯の奥から満面の笑みで手を振った。
その腰には、以前のようなコルセットは巻かれていなかった。
「おはようございます、親父さん。定期点検に伺いました」
トアが工房の勝手口から中へ入ると、作業台の脇には、大騒動の後に再納品した木製の搬送トレイが置かれていた。
トレイの底には真鍮の薄板が嵌め込まれているが、その表面の青白い燐光は、今は完全に消え去っていた。
トアは鞄から示度針を取り出し、トレイの底板に近づけた。
ガラス筒の中の針は、ゼロの目盛りの上で静止したまま、身動ぎもしない。
「……うん、完全に力が抜けているな」
「やっぱりそうかい?」
店主が小麦粉のついた手で頭を掻いた。
「今朝、生地を載せて押してみたら、やけに重くてね。トアさんが言っていた通り、ちょうど一ヶ月で魔法が切れたよ。壊れたわけじゃないんだな?」
「はい。故障ではありません」
トアはトレイを裏返し、固定ボルトの摩耗度をノギスで測りながら説明した。
「内部に封入されていた微弱な浮遊魔法が、規定の仕事量をすべて消費して、自然に消滅した証拠です。無理な負荷をかけず、正しく使い切っていただけたということです」
「そうか! 魔法を使い切るなんて、なんだか不思議な気分だな。これまでは暴走するか破裂して終わりだったのに」
「それが、魔法の本来の終わり方です」
トアは背後のコリンへ振り返った。
「コリン、予備の充填済み真鍮板を出してくれ」
「はい!」
コリンが鞄から、設備局の安全認可印が刻印された新しい真鍮板を取り出した。
あらかじめ適正な魔力圧が封入され、第三者機関の検査を通過した規格部品だ。
トアは見習いの手元を見守りながら、交換の手順を指示した。
「古い板を外す前に、木枠の溝の歪みを確認しろ。……よし。新しい板を滑り込ませたら、固定ボルトは対角線上に均等に締める。片締めをすると、浮力のベクトルが狂って生地が片寄りするぞ」
「はい……対角線に、半回転ずつ……」
コリンは緊張で唇を結びながら、正確にレンチを回した。
ボルトが噛み合うと、新しい真鍮板から淡い青い光が滲み出し、木製トレイがかすかな浮遊感を帯びて作業台の上に静止した。
店主がパン生地の平箱を載せ、指先で軽く押す。
トレイは何の摩擦も感じさせず、滑らかに窯の前へと進んだ。
「おお、戻った! やっぱりこの軽さだな!」
店主は嬉しそうに声を上げ、作業台の引き出しから売掛帳と革袋を取り出した。
「はいよ、トアさん。定期交換の手数料と、新しい部材の実費代だ。受領証を頼むよ」
トアは差し出された銀貨を受け取り、金額を確かめてから、複写式の領収証にサインをして手渡した。
「いつもありがとうございます。次回はまた半年後に伺います」
「おう、待ってるよ! あ、これ持っていきな!」
店主の妻が奥から駆け寄ってきて、焼きたての丸パンと、レーズンがぎっしり詰まった堅焼きパンの包みをトアの手へ押し付けてきた。
「お昼に二人で食べなさいな。オルミ技師さんにもよろしくね!」
「あ……ありがとうございます」
トアが苦笑しながら包みを受け取ると、隣のコリンが羨ましそうに目を輝かせていた。
店を出ると、朝の光は一段と強まり、通りの白石を眩しく照らしていた。
コリンに午後の巡回予定を指示し、事務所へ戻らせたあと、トアはパンの包みを抱えて中央広場へと向かった。
広場の中央、新しく整備された噴水池の縁に、濃紺の外套を着た見慣れた後ろ姿があった。
セナ・オルミだった。
黒髪をうなじの高さで整然と束ね、手には厚い青焼きの図面を広げている。
彼女は耳元にかかる髪を風に揺らしながら、頭上に広がる大屋根の開口部を、眩しそうに見上げていた。
トアは足音を立てて近づき、彼女の隣に並んだ。
「セナ」
セナが驚いたように振り返り、トアの顔を見て、それから彼が抱えているパンの包みに視線を落とした。
その瞳が、柔らかく細められる。
「三日月堂の定期点検、無事に終わったようですね」
「ああ。コリンの腕前も悪くない。ちゃんと手順通りに交換できたよ」
トアはセナが見上げていた空へ、視線を移した。
青銅の巨大な梁が幾何学模様を描き、その向こう側に、どこまでも透き通った秋の空が広がっている。
かつて町を押し潰そうとしていた屋根は、いまや光と影を優しく制御するための、巨大な日除けへと生まれ変わっていた。
「綺麗ですね」
セナが静かに呟いた。
「昔の私なら、屋根が開いていることによる熱損失や、降雨時の配水負荷の増加ばかりを計算していたでしょう。でも……こうして見上げると、光が入るというだけで、町の人々の歩く速度が少し早くなる理由が分かります」
「数字には出ない効率だな」
「ええ。ですが、工学的に最も重要な要素かもしれません」
セナは手の中の図面を丁寧に丸め、図面ケースへと戻した。
その側面には、以前のような『設備局防護技術課』の文字ではなく、『ネリヴァ保全機構・現場設計室』の新しい印章が押されていた。
「今日の仕事は、これで一段落ですか?」
トアが尋ねると、セナはわずかに首を傾げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「現場の安全確認はすべて完了しました。緊急の呼び出しも入っていません。……つまり、定時で上がれるということです」
「なら、市場へ寄って帰ろう。今夜は何にする?」
「そうですね……昨日は煮込みでしたから、今夜は野菜を多く摂りたいです。秋カブと、あの高架倉庫から降りてきたばかりの新鮮な豚肉を炒めるのはどうでしょう」
「いいな。味付けは塩と、市場の香辛料屋で見つけた新しい乾燥ハーブを使ってみよう」
二人は並んで歩き出した。
坂道を下る二人の間には、ミレが頑丈に仕立て直してくれた、小型の手押し荷車があった。
車輪にはトアが組み込んだ逆流防止弁付きの減摩金具が光り、段差を越えるときにも嫌な衝撃を一切立てない。
荷台には、二人がこれから買うであろう、たくさんの野菜と肉を載せるための十分な空間が空けられていた。
市場の広場へ入ると、威勢のいい商人たちの声と、買い出しの人々の笑い声が心地よい雑踏となって響き渡っていた。
青果店の店先でカブを選び、肉屋の店主と世間話を交わしながら、二人は荷車を少しずつ満たしていった。
◆ ◆ ◆
坂の上の作業場へ戻った頃には、谷間に夕暮れの深い紫と橙のグラデーションが広がっていた。
開かれた屋根の隙間から、宵の明星が凛とした光を放ち始めている。
トアは荷車を土間に引き入れ、買い込んだ食材の籠を作業台の上へ降ろした。
セナは慣れた手つきで外套を脱ぎ、部屋の隅の木製ハンガーへと掛けた。
その下には、トアの予備の作業着が並んで掛けられている。
トアは道具鞄を棚へ戻し、机の上に置かれていた依頼伝票の束を手に取った。
『第二共同住宅、給湯配管の定期検査依頼』
『東街区、荷揚げ滑車の異音点検』
いくつかの依頼票が並んでいる。
トアは鉛筆を手に取り、それらの伝票の日付欄を見つめた。
以前のトアなら、頼まれたその日の夜に無理をして駆け込み、暗闇の中で泥まみれになりながら作業をしていただろう。
だが、今のトアは違った。
彼は伝票の緊急度を一つひとつ冷静に判別し、すべて明日の午前の予定欄へと、落ち着いた筆跡で書き留めた。
今夜、急を要する危険な故障は何一つない。
明日、太陽が昇ってから、コリンとともに正当な手順で向かえば十分に間に合う仕事ばかりだった。
トアは鉛筆を置き、伝票を真鍮の重しで留めた。
そして、道具鞄の留め金をしっかりと閉じた。
今日の仕事は、ここまでだった。
振り返ると、窓辺の食卓には、すでに温かな明かりが灯っていた。
あの採寸尺と麻糸を使い、ミリ単位で位置を決めた食卓だった。
二脚の丸椅子と背もたれ付きの白木の椅子が、互いに寄り添うように並んでいる。
暖炉には新しい薪がくべられ、パチリと心地よい火の粉が跳ねていた。
セナが陶器の鍋を火にかけ、木製のヘラで丁寧に具材を混ぜ合わせている。
湯気とともに、香ばしい豚肉と甘いカブの匂いが、部屋いっぱいに広がっていく。
「トア、お皿を並べてくれますか」
鍋から顔を上げたセナが、火照った頬を綻ばせて振り返った。
「ああ、今行く」
トアは棚から二枚の素焼きの深皿を取り出した。
あの大衆食堂の親父から教わった通り、一度ぬるま湯をくぐらせてから布で拭いた、傷一つない頑丈な皿だった。
トアは皿を手に持ち、湯気の上がる食卓へと足を踏み出した。
外の空は静かに暮れゆき、ネリヴァの町に穏やかな夜が訪れようとしていた。




