第七章 錬金術師の条件
クロユリ・ミンジャスは、十六歳だった。
黒髪のショートカット。細い眼鏡。体格は小柄で、汚れた服を着ているとさらに幼く見える。けれど、部屋の中へ通されると、彼女がただの子どもではないことが分かった。
本棚には、自然精霊に関する本、鉱物の性質を記した帳面、植物の乾燥方法を書いた紙が並んでいる。棚の上には液体の入った瓶。机には、何かを混ぜるための小さな器具。
そして、窓が一枚なくなったせいで、森の風が遠慮なく入っていた。
「先ほどは驚かせちゃって、ごめんなさいッス」
「驚いたというより、窓から人が飛んできたことに困惑してる」
「錬金術の失敗ッス。いつものことッスよ」
「いつものことにするな」
俺たちは、ここに来た事情を説明した。
空から落ちてきたこと。フリシアの騎士になったこと。ジギタリスから領地争奪戦を挑まれたこと。セウブケスで仲間を探していること。
クロユリは、頬杖をついて最後まで聞いた。
「なるほど。事情は分かったッス」
「じゃあ、仲間になってくれるか?」
「今のままなら、お断りッス」
「早いな!」
「オワリたちに協力したところで、私に何の見返りがあるんスか?」
「見返りなら、きっと用意する」
「きっと、は信用できないッス」
「そこを何とか!」
俺が机へ身を乗り出すと、フリシアが肩へ手を置いた。
「オワリ。クロユリさんの話を最後まで聞きましょう」
「安心するッスよ。クロユリは、今のままならと言ったッス」
「つまり、条件があるのか?」
クロユリは、机の引き出しから空の瓶を取り出した。
「ガルラ山へ行って、アガパ鉱石とアカサス草を採ってきてほしいッス」
「その材料が必要なのか?」
「今まで仕入れていた分が、ついに切れたッス。街の知り合いに頼んでいた人たちも、領主争いを嫌ってセウブケスを離れた。材料がなければ、私は何も作れない」
「採取するだけなら、他の人にも頼めるんじゃないか?」
「頼める人が、もういないッス。それに、この小屋も限界ッス」
クロユリは、壁のひびを指でなぞった。
「フリシアっちのお屋敷に、住ませてほしいッス。部屋が余ってるなら、錬金術師を一人置く価値はあると思うッスよ?」
フリシアは、即答しなかった。
彼女は部屋の中を見回した。花瓶。本棚。汚れた実験器具。窓の外に広がる森。
「クロユリさんは、ここを離れたいのですか?」
「離れたいというより、戻れる場所がほしいッス」
軽い口調だったが、その言葉だけは妙に重かった。
「私は構いません。部屋は余っていますし、錬金術師がいてくだされば屋敷の安全性も増します」
「安全性?」
「お前、錬金術のことを何も知らねえのか」
カルミアが呆れたように言った。
クロユリは、四つの小瓶を並べた。
「自然には、火、風、土、水の微精霊がいるッス。錬金術師は、自分の魔力で精霊を従えるわけじゃない。素材――依代と、言の葉で力を借りるッス」
小瓶の中身は、赤い粉、青い液体、灰色の石、白い羽根だった。
「クロユリ自身は、魔力を持っていないッス」
彼女は、こちらが尋ねる前に言った。
「この世界では、誰でも少しは魔力を持っていると思われているッス。でも私は、ほとんど空っぽ。だから、普通の魔法使いみたいに自分の中から火を出すことはできない」
「それなのに、精霊を使えるのか?」
「使うんじゃなくて、借りるんス。私の力ではないから、精霊が気に入らなければ動かない。依代が粗悪なら、途中で帰る。言の葉が曖昧なら、変なところへ飛ぶ」
「それで、さっき俺を飛ばそうとしたのか?」
「あれは飛ばすつもりじゃなかったッス。風が、オワリの足を勝手に持っていっただけ」
「それを失敗と言うんだよ」
クロユリは眼鏡を押し上げた。
「魔力がないことは、不便ッス。けど、精霊の力を自分の力だと思い込まずに済む。私ができるのは、借りる条件を整えることだけ。だから、準備を怠ったら何もできない」
「依代は、鉱石や草花、金属。言の葉は、魔法で言う詠唱に近い。組み合わせと手順が正しければ、時間差で発動する仕掛けや、条件反応する壁を作れるッス」
「魔法と違って、その場で何でもできるわけじゃない」
「だから準備する。準備した分だけ、強くなる」
クロユリは、俺の短刀を見た。
「それ、ちょっと貸してほしいッス」
「何に使うんだ?」
「私の説明を分かりやすくするためッス」
短刀を渡すと、クロユリは柄の部分へ小さな紙片を貼った。紙には読めない文字が書かれている。
「オワリ、私へ斬りかかってほしいッス」
「分かりやすいどころか、危険なんだが」
「この紙片が守るッス」
「いや、信じられない」
「だから試すんスよ」
俺は、ゆっくり短刀を振り下ろした。
刃がクロユリへ届く寸前、窓から突風が吹き込んだ。
俺の身体が横へ流され、足元から土の壁がせり上がる。
短刀が地面へ落ちた。
「これが錬金術ッス」
クロユリは土の壁へ手を当てた。
壁は、細かな砂となって崩れていく。
「守りにもなる。罠にもなる。条件を決めておけば、誰かが触れた時だけ発動させることもできるッス」
「監視カメラに警備員、ワイヤートラップに頑丈な壁。それに可愛い女の子まで付いてくる」
「最後の一つは、錬金術と関係ないッス」
「でも重要だろ」
クロユリは、呆れたように笑った。
「材料を採ってきてくれたら、仲間になるッス。あと、今回は私も同行するッスよ」
「危険じゃないのか?」
「依代が残り少ないんス。そんな状況で一人待っていられないッス」
「か弱い乙女を守ってほしい、と?」
「よく分かったッスね」
「顔に書いてある」
クロユリは、壊れた窓の向こうを見た。
「太陽は苦手ッスけど、外に出られないわけじゃない。私は、自分の材料を自分で見たいんス」
そこに、錬金術師としての誇りがあった。
俺はフリシアとカルミアを見る。
「俺は受ける。二人は?」
「もちろんです」
「ガルラ山なら、俺と姫様が案内できる」
カルミアが立ち上がった。
「なら、決まりッスね」
クロユリは、初めて少しだけ安心した顔をした。
話がまとまったあと、俺たちは割れた窓を片づけた。
クロユリは最初、自分でやると言い張ったが、フリシアが「仲間になる前の家を壊したままにしておくのは、こちらも気になります」と言ったため、全員で掃除をすることになった。
「窓は、屋敷へ移る前に直すッス」
「自分の家を置いていくのか?」
「ここには、私の失敗の跡が多すぎるッスから」
クロユリは、棚の奥から古いノートを取り出した。
表紙には、何度も書き直した錬金術の記号がある。
「この小屋は、昔、私の師匠が使っていたんス。師匠は私に精霊への呼びかけ方と、失敗した時にどう逃げるかを教えてくれた」
「逃げる方法も、錬金術の一部なのか?」
「生き残れば、また作れる。だから大事ッス」
「師匠はどこへ?」
「街を出たッス。理由は、私がまだ聞かされてない」
クロユリは、古いノートを閉じた。
「黒髪の錬金術師は珍しいから、街では色々言われるッス。精霊に嫌われているとか、逆に精霊を食べるとか」
「それはひどいな」
「慣れてるッス。でも、慣れても嬉しくはならない」
彼女が初めて、冗談ではない顔をした。
フリシアは、クロユリの隣へ座った。
「私も、父親が亡くなった後は、何を言われても自分のことのように受け止めてしまいました」
「フリシアっちも?」
「領主として未熟だ。父の娘なのに何も知らない。あなたの言うように、私は色々なことを言われました」
「それで、どうしたんスか?」
「全部を否定しようとして、疲れました。今は、必要な言葉だけを残すようにしています」
クロユリは、しばらく黙っていた。
「それ、私もできるようになりたいッス」
「では、屋敷で一緒に練習しましょう」
「友達みたいッスね」
「友達ですか?」
「違うんスか?」
フリシアは、少しだけ考えた。
「違いません」
俺は、その会話を聞きながら、窓の破片を布へ包んだ。
仲間という言葉は、剣を振れる人間だけのものではない。
同じ傷を見せられる人間も、仲間になれるのだろう。
出発前の夜、クロユリは俺の短刀へ小さな紙片を貼った。
「明日、ガルラ山で材料を探す前に、簡単な言の葉を試すッス」
「俺に使えるのか?」
「力を出すのは依代。オワリは、方向を指定するだけッス」
「なら、俺でもできる」
「できる。ただし、失敗すると風に飛ばされるッス」
「先に言え」
クロユリは、いつもの調子で笑った。
出発前の荷造りで、クロユリは荷物の中身を何度も確認した。割れ物の瓶、乾燥させた草、石を削る道具。どれも小さく見えるのに、箱を一つ持ち上げるだけで腰を痛めそうな重さがあった。
「その荷物、ガルラ山へ持っていくのか?」
「実験室を作るなら、全部必要ッス。火の依代は火の近くへ置きたい。水の依代は湿気のある場所へ置く。土の依代は床へ直に置くと反応するから、木箱が必要」
「部屋一つで足りるのか?」
「足りないッス。だから、屋敷の一角を借りる」
フリシアはすぐに頷いた。
「空いている東棟を使ってください。以前は使用人の作業場でしたが、今は使われていません」
「火を使うなら、火事が心配だな」
カルミアが言う。
「だから、カルミアには立ち入り禁止の線を引いてもらうッス。オワリには、瓶を触らないようにしてもらう」
「俺だけ名指しなのはなぜだ」
「触るなと言われたものほど触りたくなる顔をしてるッス」
「失礼だな。少ししか触りたくならない」
「触りたくなるんじゃないか」
仮の作業場所を決めると、クロユリは東棟の床を確認し、窓の位置を測り、風の通り道を調べた。フリシアは彼女の指示に合わせて棚の配置を変え、カルミアは火災用の水桶を並べた。俺は壊れた木箱を直そうとして、釘を二本曲げた。
「オワリは、作業より見張りの方が向いているかもしれないッス」
「騎士として評価された気がしない」
「でも、必要な仕事ッス。錬金術師は一人で準備していると、誰にも止めてもらえないから」
四つの小瓶を窓辺へ並べると、火の粉、風の渦、土の粒、水の雫がそれぞれ一度だけ光った。
クロユリは、その光を確かめてから、初めて屋敷の中で息をついた。
「ここなら、戻ってきてもいいかもしれないッス」
「もう戻ってきているだろ」
俺が言うと、彼女は一瞬だけ目を丸くした。それから、いつものように眼鏡を押し上げた。
「そういう言い方、ずるいッスよ。オワリは」
「だから、明日は飛ばされないように、私を守ってくださいね。騎士様」




