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第四章 姿送りと旅の始まり

屋敷の玄関で、俺はもう一度立ち止まった。


「これ、本当に留守にして大丈夫なのか?」


屋敷には、最低限の食料と貴重品が残されている。領主が不在になると分かれば、狙う人間はいるだろう。


「大丈夫です」


フリシアが、両手を胸元で組んだ。


「姿送り」


淡い光が、彼女の足元から広がった。


俺の目の前に、俺が立っていた。


「うわっ」


思わず後ろへ下がる。


顔も服も、俺が今着ているものと同じ。けれど、瞳に意思がない。鏡に映った自分よりも不気味な、正確な写しだった。


続いて、フリシアとカルミアの写しが現れた。


「私が認識している人なら、一時的なコピーを作れます。離れた場所へ送ったり、複雑な判断をさせたりはできません。長時間は保ちませんが、留守を悟らせない程度なら」


「居るのに留守のふりをするんじゃなくて、居る留守か」


「その言い方、好きですね」


「便利だからな」


フリシアの姿送りには、限界がある。

強い衝撃を受ければ消える。魔法を使うこともできない。フリシアの認識から外れた人物は、細部を写せない。


それでも、領主邸を守るには十分だった。


俺たちは魔法馬車へ乗り込んだ。

舗装された道ではないのに、車輪の揺れは少ない。車体の下に刻まれた魔法陣が、地面から受ける衝撃を分散しているらしい。


街道沿いの村を通るたび、人々がフリシアへ声をかけた。


「フリシア様、お出かけですか?」


「新入りの兄ちゃん、姫様をしっかり守れよ!」


フリシアは、そのたびに馬車の窓を開けて頭を下げた。

貴族らしく手を振るのではない。一人一人の顔を見て、言葉を返している。


「みんな、フリシアを知っているんだな」


「父が領主だったころから、村々を回っていました」


「じゃあ、フリシアが嫌われてるわけじゃない」


「それでも、領主として十分かは別の話です」


「そこを、これから変えていくんだろ」


隣で、カルミアが小さく笑った。


「お前は、簡単に言うなぁ」


「簡単じゃないから、言葉にしておくんだよ」


夜は小さな集落の宿を借りた。

翌日は村が見つからず、草原で野宿をすることになった。


焚き火を囲み、カルミアが夕食を作る。クロユリもリナリアも、まだこの旅にはいない。俺とフリシアとカルミアの三人だけだ。


「今日は、本物の剣を使ってみるか」


カルミアが、俺へ剣を渡した。


木剣と違って、重みがある。柄の革が手のひらに食い込む。


「剣って、こんなに重いのか」


「重さに慣れろ。振り回すな。剣は腕で持つんじゃなく、身体全体で運ぶ」


その時、カルミアの視線が草原の先へ向いた。


狼に似た獣が一匹、闇の中に立っていた。


「お前の実戦相手だ」


「いきなり?」


「弱いモンスターだ。何かあれば俺が止める」


「その言葉、信用していいのか?」


「姫様の周囲には、守護宝珠の結界もある。俺が見ている。フリシア様が見ている。だから行け」


俺は剣を握り、獣へ近づいた。


「こんにちはー」


返事があるとは思っていない。

けれど声をかけたことで、自分の足が震えているのを自覚した。


獣の肩が沈む。


次の瞬間、飛びかかってきた。


身体が、先に動いた。


避けられる。

爪の軌道が見える。足を引き、剣を振る。刃が獣の脇腹を浅く裂いた。


「今の動き……」


カルミアの声が聞こえる。


俺は自分でも驚いていた。

運動神経は、元の世界で平均より少し上くらいだった。なのに、相手が何をするか分かる。身体が動く。


もう一度、獣が跳ぶ。


「落ちろ!」


剣を振り下ろした。


獣が地面へ落ちる。


「やった……」


直後、草むらの奥に新しい目が現れた。


一つ、二つ、三つ、四つ。


「カルミア!」


四匹が同時に走り出した。


俺の身体は、今度は動かなかった。さっきまで見えていた軌道が、あまりに多すぎる。


死ぬ。


そう思った瞬間、風が走った。


四匹の狼が、俺の目の前で倒れていた。


カルミアは、剣を鞘へ戻している。


「油断すんな。実戦ってのは、一匹倒して終わりじゃねえ」


「速すぎるだろ……」


「あれくらいで驚くな。俺が本気を出したら、まだ見えねえ」


「見えないものを基準にするなよ」


フリシアが駆け寄ってきた。


「二人とも、怪我はありませんか?」


「俺は大丈夫。でも、今の……」


草原の向こう、大きな木の陰に、何かが立っていた。


少女のような声がした。


「アハハ」


振り向いた時には、何もいない。


「どうかしましたか?」


「今、笑い声が聞こえなかったか?」


フリシアとカルミアは顔を見合わせた。


「聞こえていません」


その夜、俺はろくに眠れなかった。

夢の中で、止まったスマホの時計が何度も八時十七分を指していた。


翌朝、出発して二時間ほど経ったころ、遠くの地平線から巨大な柱が伸びているのが見えた。


「あれは、塔か?」


「樹です」


フリシアが笑った。


「大樹の都セウブケス。街の中心にある、世界で最も大きな樹の一つです」


雲を突き抜ける幹の周囲に、無数の建物が連なっている。

俺たちは、領地争奪戦の準備をするための最初の街へ到着した。


街へ入ったあと、宿へ向かう前に、馬車が小さな村で止まった。


道の脇に、古い水場がある。村人たちはフリシアの姿を見ると、遠慮がちに集まってきた。


「フリシア様。セウブケスへ行かれるのですか?」


「はい。しばらく領地を空けますが、姿送りを屋敷へ残しています。何かあれば、そちらへ伝えてください」


「では、これを」


村の女性が、干した果物を差し出した。


フリシアは一度断ろうとしたが、相手の顔を見て受け取った。


「ありがとうございます。戻ったら、今度はこちらから何かお持ちします」


「お嬢様が、そんな約束をしなくても」


「約束したほうが、戻る理由になりますから」


馬車が再び動き出す。


「姿送りは、どれくらい遠くまで保てるんだ?」


俺が尋ねると、フリシアは首を振った。


「距離というより、私の認識が薄れると消えます。姿を知っているだけでは足りない。声や歩き方、癖まで思い出せる相手でなければ、細部を作れません」


「じゃあ、俺のコピーを置く時は?」


「まだ、少し曖昧です。オワリの顔は分かりますが、歩き方や声は、毎日一緒にいるほどではありませんから」


「なるほど。俺はフリシアの中で、まだ“空から落ちてきた変な人”か」


「変な人という認識は、かなり正確です」


「そこは否定してくれ」


夕暮れ、村の外で野宿をした。


カルミアが焚き火を起こし、フリシアが鍋を支える。俺は薪を探しに行ったが、戻ってくると、拾った木の半分が湿っていた。


「薪を見つけるのも、騎士の仕事か?」


「人を守る仕事なら、薪を探すことも含まれる」


「騎士の範囲が広すぎる」


「剣を振るだけの騎士は、腹が減った時に何もできねえ」


食事のあと、俺は焚き火を見つめた。


元の世界では、キャンプをしたことがなかった。

火を起こす道具も、星の名前も知らない。けれど、カルミアが作った粗い木の椅子に座り、フリシアが隣で本を読む時間は、不思議と落ち着いた。


「フリシアは、眠らないのか?」


「父の帳簿を読み返しています」


「明日にしろよ」


「明日になると、明日の問題が来ます」


「それなら、今日の問題は今日終わらせて、明日の問題は明日の自分に任せればいい」


フリシアは本を閉じた。


「オワリは、未来の自分を信じているのですね」


「信じてるというより、今の自分ではどうにもならないから、任せるしかない」


「それは、少し羨ましい考え方です」


彼女は、火の向こうへ視線を移した。


「私には、未来の自分へ任せる前に、今の自分が決めなければならないことが多すぎます」


俺は、それ以上言えなかった。


領主にしか見えない景色があり、十八歳の俺にしか見えない景色もある。

同じ馬車に乗っていても、背負っているものは同じではない。


夜が深くなる前、街道の先に小さな関所が見えた。


関所といっても、木の柵と詰め所があるだけだ。道を通る荷車は一台ずつ止められ、積み荷と通行証を確認されている。俺たちの馬車が近づくと、見張りの男が手を上げた。


「エクセア領主家の馬車です」


フリシアが窓から身分証を差し出す。


男は一度だけ目を通し、すぐに通すのではなく、馬車の中を覗いた。


「領主様ご本人ですか?」


「はい」


「お一人で?」


「騎士が二人おります」


俺とカルミアが軽く頭を下げる。男の視線が、俺の見慣れない服と剣へ向いた。


「新しい騎士ですか」


「先日、任命されました」


フリシアが答えると、男は少しだけ表情を緩めた。


「父君の時代には、関所の詰め所へ毎年冬の毛布を届けてくださいました。今は領主様が替わったと聞いて、どうなるかと思っていました」


フリシアは、身分証を受け取る前に尋ねた。


「今年の毛布は、足りていますか?」


「今のところは。ですが、鉱山からの納入が減れば、冬には不足するかもしれません」


「書面にして、屋敷へ送ってください。戻り次第、確認します」


「承知しました」


関所を通り過ぎてから、俺はフリシアへ視線を向けた。


「今の、関所の人から相談を受けるために止まったのか?」


「止まったのは通行のためです。話を聞いたのは、聞こえてしまったからです」


「聞こえても、見なかったことにする領主もいるだろ」


「だからこそ、私は見なかったことにしたくありません」


彼女の答えは迷いがなかった。


馬車の中へ戻った彼女は、すぐに小さな帳面を開き、関所の名前と毛布の不足時期を書き留めた。父親の記録をなぞっているのではなく、自分の記録を作り始めているように見えた。


カルミアが御者席から声を投げる。


「姫様、そうやって全部拾っていくと、三か月後には帳面が一冊じゃ足りなくなるぞ」


「なら、二冊にします」


「そういうところだけは、親子そっくりだ」


フリシアは、少し驚いた顔をした。


「父も、そうでしたか?」


「頼まれたことを忘れないために、帳面を何冊も持っていた。違うのは、あいつは書いたら自分で現場へ行ったことだ」


フリシアは帳面の上でペンを止めた。


「では、私も行かなければなりませんね」


「そのためにも、まずは生きて帰るぞ」


俺が言うと、カルミアが鼻で笑った。


「順番が逆だ。帰るために、生きるんじゃねえ。次に行くために、生き残るんだ」


その言葉の意味を、俺はまだ完全には分かっていなかった。


けれど、関所で聞いた毛布の話と、フリシアが帳面へ残した文字は、決戦よりも先に守らなければならないものがあると教えてくれた。


翌日、遠くに大樹が見えた。


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