第三章 領地争奪戦のルール
ジギタリスたちが去ったあと、屋敷の応接間には重い沈黙が残った。
俺は、さっき口にした言葉を思い返していた。
「勢いで言った。悪かった」
「いいえ」
フリシアは首を振った。
「あの場で、オワリが声を上げてくれてよかったです」
「でも、現実問題として、こっちは二人だ。しかも俺は三日しか剣を握ってない」
「二人ではありません」
カルミアが椅子へ深く腰を下ろした。
「姫様と俺、それにオワリ。少なくとも三本だ。三か月ありゃ、もう少し増やせる」
「その前に、ルールを教えてくれ」
俺はテーブルの上に広げられた地図を覗き込んだ。
アザレア王国。中央に王都。西寄りにエクセア領、その隣にバラウェル領。エクセアは鉱山、街道、森林、湖を含んだ広い土地だった。中心に大樹の都セウブケスがある。
「領主が亡くなった場合、王都は近隣の領主に統治権の譲渡を認める。最初は話し合いだ」
カルミアが地図を指でなぞる。
「大半の領主は棄権した。ゼフィランサス卿と親しかったからな。フリシア様が領主として成長するまで支える、という意思表示だ」
「でも、ジギタリスは違った」
「あいつは、世界をゲームだと思っている。自分自身も、使える駒の一つだと考えている節がある」
「そこまでして、エクセア領が欲しい理由は?」
カルミアの手が止まった。
「領地は広い。鉱山もある。大樹の都は物流の要だ。理由なんて、いくらでもつけられる」
フリシアが、静かに話を引き継いだ。
「争奪戦で戦闘行為に発展する場合、三か月の準備期間を置き、王都の裁定官が立ち会う正式な場で行われます。王都のギルドに所属している者は参加できません」
「強引に攻めたら?」
「両領地の統治権が剥奪されます。王都直轄になり、領主は失格です」
「じゃあ、今のところ王都は助けてくれないのか」
「助けるのではなく、ルールを守らせる立場です」
フリシアは、父の机から一冊の帳簿を持ってきた。
表紙には、ゼフィランサス・アンジュの名前がある。
「父は、領地を守っていました。鉱山の事故で亡くなったあと、私は当主になった。でも、書類の扱いも、人を動かす方法も、まだ何も分からない」
「フリシアが悪いわけじゃない」
「悪いかどうかを決めるのは、私ではありません。領民です」
彼女の声は落ち着いていた。落ち着いているからこそ、無理に感情を押し込めているのが分かった。
「父の葬儀の日、鉱山で働いていた人たちが来てくれました。泣いている人も、怒っている人もいた。私は何を言えばいいのか分からなくて、父の代わりに頭を下げることしかできなかった」
フリシアは、帳簿の端を撫でる。
「領主になるとは、父の代わりになることだと思っていました」
「違うと思う」
「また、簡単に言いますね」
「俺は領主じゃないからな。でも、フリシアが父親の真似をして倒れるより、フリシアのやり方で失敗したほうが、少なくとも自分の失敗になる」
彼女は、泣かなかった。
ただ、蒼い瞳を伏せて、小さく息を吐いた。
「あなたは、不思議な人です」
「それ、褒めてるか?」
「今は、褒めています」
三か月で仲間を集める。
戦える人だけではない。情報を集める人、物資を用意する人、領地を守る人。ジギタリスの四騎士に対抗するだけの理由と仕組みが必要だった。
「セウブケスへ行きましょう」
フリシアが地図の中央を指す。
「エクセア領最大の街です。人も物も、情報も集まる。ギルドの現役冒険者は戦えませんが、そこにはギルドを離れた人や、どこにも所属していない人もいます」
「決まりだな」
俺は、テーブルの上の地図に手を置いた。
「三か月で、フリシアの剣を増やす」
出発までの二日間は、準備に追われた。
フリシアは、棄権した近隣領主たちへ手紙を書いた。助けを求めるためではない。領地争奪戦に参加しないという意思を、正式に確認するためだ。
「棄権した領主が、こちらへ兵を貸すことはできない」
カルミアが説明する。
「王都の規則に触れれば、エクセアも相手の領地も失う。だから、彼らは中立でいるしかない」
「それでも、手紙を書くのか?」
「何もしないことと、何もできないことは違います」
フリシアは、封蝋へ領主印を押した。
「私は、各領主へエクセアの現状を知らせます。戦いの結果だけでなく、これから何をする領主なのかを見てもらうために」
「勝つ前から、勝った後の話をするんだな」
「領主の仕事は、戦いの後に始まりますから」
カルミアは旅の道具を揃えた。食料、野営用の布、薬、予備の剣帯。フリシアは自分で荷物を持とうとしたが、カルミアに止められた。
「姫様が荷物を持って歩くと、村の人間が余計に心配する」
「私は、荷物くらい持てます」
「持てるかどうかじゃなく、何を見せるかの話だ」
俺が聞いていると、カルミアは俺へ予備の剣帯を渡した。
「オワリ。これを使え」
「俺は、武器を二本も持てるほど器用じゃないぞ」
「剣と短刀は役割が違う。長い刃で距離を取り、短い刃で近づかれた時に返す」
「短刀は、リナリアが作ったものにしたい」
「なら、そうしろ。自分で選んだ武器は、最後に手放しにくい」
出発前の夕方、フリシアは屋敷の裏にある小さな墓地へ向かった。
そこには、ゼフィランサス・アンジュの墓があった。
フリシアは、花を一輪置いた。
「父は、私に領主の仕事を教える時間がないまま亡くなりました」
「教わる前に、始めるしかないこともある」
「オワリは、元の世界で一人暮らしを始めたばかりだったのでしょう?」
「ああ。何も知らないまま、部屋を借りて、朝飯を作って、携帯ショップへ行こうとした」
「それで、空から落ちた」
「人生、何が起きるか分からないな」
フリシアが、墓石へ視線を落とす。
「父は、私が領主になることを望んでいたのでしょうか」
「本人に聞けないなら、今は自分で決めるしかない。望んでいたかどうかより、フリシアがどうしたいかだ」
「私が、どうしたいか」
「そう。父親の希望を叶えるためだけじゃなく、フリシア自身が残したいものを決める」
彼女は、長い時間をかけて頷いた。
「では、エクセアを守りたいです」
「俺も手伝う」
「騎士として?」
「騎士として。あと、朝飯を作ってもらえる場所をなくしたくないから」
フリシアは、初めて声を出して笑った。
笑い声が消えたあと、屋敷は急に静かになった。
明日の朝には出発する。戻ってくるまで、ここを守る者は少ない。姿送りの写しを残すとはいえ、写しは本物の代わりにはならない。決められた動きを繰り返すだけで、予想外の相手と話すことも、領主として判断することもできない。
夕食の席で、俺はそのことを口にした。
「屋敷に残る人間が少なすぎないか?」
「最低限の見回りは、近くの村から協力を頼みます」
フリシアが答える。
「ただ、全員を屋敷へ集めれば、留守を隠す意味がなくなります。見せる人数と、本当に守る人数を分ける必要があります」
「領主って、出発前から人を騙す仕事なのか?」
「騙すのではありません。相手に、こちらの弱点を全部渡さないだけです」
カルミアが、鍋の残りを皿へよそった。
「戦場でも同じだ。何を持っているか、何を持っていないかを全部見せる奴は、戦う前に負ける」
フリシアは、少し困ったように笑った。
「お二人は、すぐに戦いの話へ戻りますね」
「戻さないと、俺は自分が何をしに行くのか分からなくなる」
俺は、食卓の端に置かれた小さな紙袋を見た。中には、出発のための硬貨が入っている。金貨、銀貨、銅貨。日本の硬貨よりずっと大きく、表には王の横顔が刻まれていた。
「この国では、領主の旅費も領地の金から出るのか?」
「本来はそうです。しかし、今回は私個人の貯えを使います」
「それで足りるのか?」
フリシアは、しばらく答えなかった。
「足りなくなったら、方法を考えます」
「その言い方、俺の世界ではだいたい危ない状態だ」
カルミアが吹き出した。
「姫様、こいつには財布を持たせるな。全部、変な道具を買う」
「俺のスマホは買い物ができない」
「スマホってのは、金を食う道具か?」
「電池が切れたら、たぶんそうなる」
そんな取り留めのない会話をしながら、最後の食事を終えた。
食器を片づけたあと、フリシアは一人で書庫へ戻ろうとした。俺はその背中へ声をかける。
「今日は、もう休め」
「ですが、出発前に確認しておきたい書類が」
「明日の馬車で読めばいい」
「馬車では揺れます」
「じゃあ、揺れながら読む練習を今からするな」
彼女は振り返り、少しだけ目を細めた。
「オワリは、領主の仕事をしていないのに、領主の休み方へ口を出すのですね」
「俺は休むのが得意だからな」
「それは自慢になるのでしょうか」
「なってほしい」
結局、フリシアは帳簿を一冊だけ閉じた。残りは机へ積んだままだったが、最初の一冊を閉じたことが重要な気がした。
夜更け、俺は荷物を確認した。替えの服、短い食料、カルミアから借りた剣帯、そしてまだ何の役にも立たないスマホと家の鍵。
鍵を捨てることはできなかった。
帰るための道具なのか、戻れない場所の記念品なのかは分からない。それでも、持っている限り、俺は自分がどこから来たのかを忘れずに済む。
翌朝、俺たちは屋敷を出た。




